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信長の弟、織田有楽斎の書面は茶会イベントに関わるLINE連絡のようだった

今日は織田信長の弟(確か末弟かと)で、武将、茶人として名前を残している織田有楽斎(うらくさい、1548~1622年)の展示会に行ってきました。現在、六本木のサントリー美術館で開催されています。
 
織田信長はもちろん知っているけど、弟?有楽斎?という人が多いと思います。しかし、実は私たちの馴染みがある地名の由来の人でもあります。それは、織田有楽斎が住んでいた場所が、現在の「有楽町」と言われているのです(諸説あります)。
 
この有楽斎、先ほど「武将、茶人」と言いましたが、いささか武将としては頼りないところがあったようです。天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦いでは石田三成の家臣で、名将と言われた蒲生頼郷を討ち取ったことは後世に残っていますが、それくらいだったのでしょう。子孫が有楽斎の功績をあげた文章のなかにも、武功としてはそれしか書いていませんでした。本能寺の変時の逃亡などもあまりほめられたことではありません。
 
一方で、有楽斎が本領を発揮したのは、対立関係にある有力者の間に入り、調停することでした。調停のなかでも大きかった一つに、豊臣秀吉と徳川家康との対立などがありました。その他の対立の調停にも貢献しています。
 
その調停に役立ったのは、有楽斎は千利休の高弟であり、茶人として茶会を主催したり、参加できたことでした。当時茶会はパーティー、サロンの場のようなものであり、そのなかで有力者たちのコミュニケーションが行われていたのです。
 
今回展示されていた書面のほとんどは、こうした茶会にかかわるものばかりでした(もちろん書面以外の展示もたくさんあります)。
こういう風に書いても固く聞こえるかもしれませんが、はっきり言えば現代のLINEで茶会イベントについての連絡交換をしているようなものだったのです。
 
例えば、豊臣秀吉の子飼いの武将であった福島正則などが有楽斎に送っている書面などは、LINE風に書けば、
「ごめん、ごめん、今回の茶会イベントに一緒に行く予定だったけどさ、ちょっとおれお腹痛くなって、行けなくなったんだよね。また誘ってね。」
というような内容だったのです(すみません、正確なところでは記憶違いがあるかもしれませんので、大意としてです)。他の書面もそうしたやり取りがたくさん見られます。
 
まあ、こうしたやり取りがたくさん見られるのは、織田有楽斎が茶人であったことに加え、温厚な人柄であったこともあるのではないでしょうか。生前の記憶が残っている時に作られた木像を眺めていると、織田信長やお市の方などを出した織田家の端正な顔立ちながら、兄信長とは違った穏やかさ、優しさを感じます。それは元々の素質に加え、末っ子であったことも影響しているのかもしれません。
 
そうしたことから武将としては頼りなくても、織田家のブランドだけではなく(それも活かしつつも)、茶人としてのネットワークや人に愛される人柄を活かし、調停役として活躍したのかもしれません。
まったく織田有楽斎という人は、己を知り、己を活かした人と言えるでしょう。

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