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『シティーハンターNetflix実写版』が風穴をあける「過剰な性的潔癖主義の抑圧」

こんにちは、経営コンサルタント兼思想家の倉本圭造です。

今回は、話題沸騰のNetflix版実写「シティハンター」の話をしたいと思っています。

僕の妻はシティーハンターの大ファンで、ずっと楽しみにしてるみたいだったのでNetflix版の実写映画が4月25日に公開されたその日に、リビングのテレビで並んで見たんですけどめっっちゃ良かったです。

僕はまあ、勿論世代だから「エンジェルダスト」とか「ユニオンテオーペ」とかの用語も、「ペガサス流星拳」とか「かめはめ波」ぐらいの感じで知ってはいるよね、という感じではありつつ、「すごい熱烈なファン」とは言い難い感じだったんですが…

でも二時間があっという間だったし、最後にエンディングの「Get Wild」の前奏が始まった瞬間はほんと、

『完璧や・・・』

ってウルウルしてしまいました。

なんか、「リメイクはどうあるべきか」みたいな話って常に話題になりますけど、このNetflix実写版シティーハンターは作った人たちの「シティーハンター愛」が爆発していて、しかも実写で、しかも1980年代の作品を現代に蘇らせるという超大変な課題のど真ん中を撃ち抜くような完成度でほんと凄かったです。

「すごいファンってわけでもないが世代的に一応知ってる」ぐらいの人でも、見てみるとすごい感銘を受けると思います。

主演の鈴木亮平氏のx(Twitter)で触れられてましたが、既に少なくとも日本、台湾、香港、韓国、フランスのNetflixで一位になっているらしい。(以下2つだけ貼りますがご興味あれば彼のxに行って遡ってみてください)

(追記なんですが、なんとその後”週間グローバルトップ10”でも一位=つまり世界一位になったそうです!↓SUGOI!!!)

さて。

今回記事では、Netflix版シティーハンターの素晴らしさについて語るとともに、この「下ネタ満載」の作品が現代に蘇る意味について考えます。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「生き字引」レベルのシティハンターマニアが演じる冴羽獠

なんか、色んな記事とかを見てると、主演の鈴木亮平さんはシティハンターのマニア中のマニアで、俳優人生の集大成としていつか冴羽獠を演じてみたいと言い続け、今までの人生の中でずっと折に触れて鏡を見ては「どういう髪型にすれば冴羽獠になるのか」「どういう服を着れば冴羽獠になるのか」「どういう声で演じれば冴羽獠になるのか」を今まで考え続けてきて、銃の扱いなんかも必死に練習して、ついにやっと実現したのがこの作品らしいです。

そのあたり、アニメ版声優の神谷明さんとのスペシャル対談があったんで、それ見るだけでも「尋常でないシティハンター愛」が伝わってきました。

あとで触れるこの海外メディアの記事でも、鈴木亮平は「walking encyclopaedia of this manga(シティハンターの歩く百科事典=生き字引)」だとか言われてて笑いました。

でもなんかね、ほんとこの作品に関しては、この「鈴木亮平さん個人」の奥底にある「作品愛」がすべてを乗り越えてるっていうか、ほんと細部までシティハンターすぎてほんとすごかったです。

なんかここまで「純粋に個人の中の愛情を突き詰める」と、僕みたいにそこまで「シティハンター大好き!」って感じじゃなく生きてきた人間にもその純粋さが伝播しちゃう凄さがあるなと。

画面に出てくるあらゆる細部の表現からなんかなぜか「自分の過去の人生の経験」の中からいっぱい思い出すことがあるし、なんなら新宿っていう街がものすごい魅力的に思えてくる。

なんかこの「新宿を描いた映画」っていう要素が、この映画を名作にしてる感があると思うんですね。

「おしゃれで洗練された街=渋谷」みたいな方向ではなくて、色々と「正しさ」から外れた存在にも居場所がある、「”乗降客数世界一”的になんでもかんでも受け入れる新宿」が持つ魅力が描かれていたところに、「Netflix版シティハンター」の素晴らしさがあったように思って、その話をぜひさせてほしいんですよね。

2●「キレイになっていく渋谷」vs「カオスを許容する新宿」

渋谷周辺がキレイになりすぎて「若者の街」でなくなったという批判を最近結構聞きますが、そのかわりにこの映画で触れられているような新宿の界隈こそが「今の東京を代表する若者の街」みたいになってる部分があるように思いました。

なんか昔、セゾングループの元ボスの堤清二氏と、あの上野千鶴子さんの対談本っていう特殊な本を読んだことがあるんですが…

ポスト消費社会のゆくえ

若い人は知らないと思いますが、って今40代後半の自分もよく知らないもっと昔の話だけど、バブル期に向かう日本の消費社会の隆盛の中で、セゾングループ(パルコとか無印とかLOFTとか、あと百貨店の中で美術展をやったり劇場を作ったり、糸井重里氏の”おいしい生活””じぶん、新発見””不思議、大好き”といったキャッチコピーとか)の果たした役割はすごい大きかったみたいなんですよね。

で、上記の本で、パルコを作って渋谷を若者の街にした堤さんは、後に80年代になってからなんかいわゆる「ハイセンス」っぽくない、地べたに座ってタムロしてるような若者が溜まる街みたいに渋谷がなっちゃったことについて結構イヤがってて(笑)

この本自体は結構「一時代を築いた有名経営者に上野千鶴子が切り込む」なかなか面白い本だったのでオススメなんですが、その「渋谷が汚い若者が溢れて嫌だった」って部分はめっちゃ「ええ?そんなこと言う?」って感じでした。

ちょっとすごい印象的だったので本を引っ張り出してきて引用しますが…

私は渋谷に行くたびに、「あれー?僕はこんな街をつくるために、渋谷の開発に乗り出したんじゃないのになあ」と思った。最初の十年なり十五年なりは、渋谷パルコができて、どんどんラブホテルが減って、新しいビルができて、街角に明かりがついて、渋谷の街全体が一新され、自分のやったことは役に立ってるという実感が持てた。しかしこの82,3年ごろから、街が次第に汚くなっていった。これは予想外だった。自分がやりたかったことと、まったく違う事が起こってるという感じでしたね。

↑ちょっとさすがにひどい言いようだな、と思って昔読んだ時に僕はかなりショックだったというか、「パルコ的な文化」が牽引したとかいう”文化”がいずれ凋落したのもむべなるかな、と思ってしまったんですが。

ただしもちろん、「ハイセンス」の居場所だってちゃんと守られてるのが「多様性」ではあるんで、渋谷はそういう「ハイセンス」寄りな方向にどんどん舵を切っていって、結果としてある意味「キレイすぎる」感じになってきた分、押し出されてしまった「カオスな若者のエネルギー」は新宿に押し出されてきているのかも?

新宿の「世界最大の乗降客数の駅」のパワーが、「行き場のない人の居場所」を提供している流れが起きているのかも?

いやほんと、Netflixシティハンターは、すごい「新宿の魅力」が詰まった映画でもあったと思ったんですよね。

それが、この「下ネタあり、コメディあり、暴力あり」をちゃんとやるというコンセプトにも繋がってる感じがするというか。

3●「トー横」しか青春がない子の人生を肯定できるか?

もちろん、それは歌舞伎町とか、「トー横(新宿東宝ビル周辺)」に集う色んな若い子たちの抱える問題と切り離せない話ではあります。

ホスト狂だとか売買春だとか薬物被害とか、行き場をなくしてそこに溜まるしかない少年少女の問題とか、単純には美化できない問題があるわけですが…

ただ、例えば

「社会問題の対策」は必要だけど、それは「そこにそうやって生きるしかない若者」の事を否定するところから入っても実現しない

…みたいな発想って大事だなと思うんですよね。

まあまあ安定した家庭に生まれて、普通に登校拒否したりせず学校に通って、部活とかやって、受験もやって、大学行って・・・というのが「自分にとっての青春」のイメージの人が多いと思うけど(かく言う僕もそうですが)、それは当たり前だけど「そういう人はそうだけどそうじゃない人はそうじゃない」わけじゃないですか。

「新宿にしか居場所がなくて集ってる子」にとっては「それが唯一無二の青春」的な要素があるわけで、それ自体を「良くないもの」として否定しにかかるのは傲慢というか、そこの先の「問題解決」にも繋がらないと思うんですね。

「倫理的に断罪」から入るのが良くないってだけじゃなくて、頭から「かわいそうな存在」としてしか扱わないのもそれ自体やはり傲慢さがあるはず。

薬物問題があるなら薬物問題の対策が必要だし、売買春関連の問題があればそれ自体を課題化して解決することは必要だけど、

そこに集うしかない感じの若い人の人生自体はある程度「肯定」していく態度が必要

…なんじゃないかと。

「居場所がない人の居場所」を肯定できるか?っていう大問題は、トーヨコ広場をある程度警察が取り締まりをしていくとしても(それ自体は必要なことだと思いますが)残るわけで、要するに「色んな人の生き方をそのまま肯定できるか」という課題は強く残るんですよね。

4●冴羽獠が率先して下ネタをやりまくることで、色んな人の人生が「肯定」される映画

Netflixシティハンターは、冴羽獠が率先して下ネタを連発する「やばいやつ」をやってるんで、そこに出てくる色んな、「四角四面の価値観からすると変な人たち」の人生も一緒に肯定されている祝福感があるのかな、と思いました。

猫耳つけてコスプレやって、TikTokのフォロワー集めて、スポンサーつけて・・・って頑張ってる女の子の事も、その「ファン」としてイベントに集まるオタクさんたちも、まあ実際の社会ではなんかあまり「大手を振って褒められない」価値観の人も結構いる情勢にはなりつつあるわけですが、それらのすべての生き方がとりあえずちゃんと「肯定」されている優しさがあるっていうか。

そのへんが、冴羽獠と新宿という街の度量の広さであって、その本質がちゃんと実写映像として昇華している感じなのが、鈴木亮平さんとスタッフの「シティハンター愛」のなせる技だったと言うことなのかなと思いました。

5●「ポリコレ」vs「反ポリコレ」を超えて

で、上記のように「”正しくない”生き方を否定しない」みたいな話をすると、「ポリコレvs反ポリコレ」みたいな話になってきちゃうわけですが、「シティハンター」は別に「反ポリコレ」ってわけでもないんですよね。

いわゆる「インティマシーコーディネーター」とか「LGBTQ+インクルーシブディレクター」の人とかが参加して、「ポリコレの番人w」みたいになってて監修をしてはいるみたいで。

あと、さっき貼ったこの英語記事によると、

https://www.yahoo.com/entertainment/city-hunter-manga-hero-drops-103015546.html?guccounter=1

実写版のシティハンターのルールとして、

・同意なしに誰かの体に触れない
・香を無力な「助けられる存在」ではなく、強い意志を持って自ら行動する存在として描いた

…という方針を作ったそうです。

だから「反ポリコレ」ってわけじゃなくて、「ポリコレ的にこれは守りましょう」という方向性はちゃんとギリギリの線で守ろうとはしてるんですよね。

でも、「下ネタ」は全開すぎるほど全開になっていて、それが多くの「正しい」生き方はできない人への「本質的な救い」になる回路は維持されている。

なんか、ここにはこの問題の「新しい着地点」が見えてきている希望も感じるところがありました。

6●「正しく生きられる人間という強者」が「正しく生きられない人間という弱者」を排除する構造を自覚する

要するに、例えば「性加害をなくす」ことと、「下ネタをなくす」ことはイコールじゃないんだけど、解像度が低くてザツな議論をしているとイコールになっちゃうんですよね。

そして、「正しい生き方」ができている人というのはそれだけ恵まれた人生を送っている強者なんで、「トー横に集うしかない」ような生まれの人に自分たちの基準を押し付けるのは「マジョリティの横暴」的な要素があるわけで。

・「正しくない生き方」をせざるを得ない生まれの人の人生を否定せずに肯定できる
・一方で、性加害問題とか薬物とかそういう社会問題があればそれ自体をニュートラルに対策する

…という着地になるのが理想なのは言うまでもありません。

だけど、ついついこの「ニュートラルな社会問題解決」が「ある種の倫理的潔癖主義の押し付け」に転化してしまいがちな現状があって、それが余計に「本来必要だった良識の敷衍」も困難にしてしまうという問題がここ最近ずっと続いてきたわけですよね。

ただまあ流れは変わってきてる部分もあって、こないだx(Twitter)で「倉本さんにはぜひ聞いてほしいイベントなんです」って誘ってくれた人がいて、

エンターテインメント表現の自由の会

のウェブシンポジウムに参加したんですがめっちゃ勉強になりました。

弁護士の亀石倫子さんという方が登壇されていて、この人は

「クラブ風営法違反事件」
「タトゥー彫師医師法違反事件」
「風俗業のコロナ持続化給付金問題」
「ピエール瀧氏の薬物問題で出演映画の公開差し止め問題」

とかで、

「いわゆる善良な市民」が持つ「無意識の偏見」が、「正しくない存在」を排除する方向に行ってしまうということの問題意識

シンポジウムでの亀石さんの発言より(記憶から再生してるのでそのままではないです)

について法律で解決していこうとする活動をされてる方なんですよね。

このイベントに誘っていただいた方が、「亀石先生は”本当のリベラル”的な存在」と言っていてめっちゃ的確な表現だと思いました(笑)

で、特にピエール瀧氏の映画の話で、最高裁が

「公益というフワッした話でなく、重要で具体的な公益の毀損がない限り表現の自由の制限は許されない」という判決

…が出たことが非常に大きな「歴史的判決」的な影響があったらしい。

結果としてそれ以後、キャンセルカルチャー的なクレーム行為が何でも通る感じにはならなくなってきたのもこの判決が影響しているのでは?という話を聞きました。

要するに、

「狭義の正しさ」を振りかざして問答無用に他人の表現を排除するのは良くない

…という流れは「法律レベル」で確定してきていて、その結果として、

もっと本質的で対等なやりとり

…が可能になりつつあるんじゃないか?というのを、このNetflixシティハンター見てて思いました。

「ある表現がある一部の人にとっては不快であって”本質的な性差別を含んでいる”みたいなフワッとした話」だけで問答無用に排除できる時代ではなくなってきた事で、「性加害とか薬物とか具体的な課題」の解決は協力しつつ「自由な表現の可能性」も残せる・・・という両取りの着地が見えてきたということかな。

なんかさっきの「ほんとうのリベラル」という話でいうと、以下記事などで何度か紹介させてもらってる移民学の橋本先生もそういう感じで、「クルド人との共生に不安を持つ川口市民のニーズ」を頭ごなしに排除せずに、具体的な共生問題を考えていくことが大事なんだ、ていう精神にも共通するものがあると思いました。

7●「一人だけカッコいいだけじゃカッコよくない美学」は震災体験から?

ってなんかシティハンターから結構遠い話にまでなってしまいましたが、それぐらい「突き抜けた救い」を感じる作品だったのでめっちゃオススメです。

ちなみに、僕は鈴木亮平さんのことあまり知らなかったんですが、僕と同じ時期に若い頃阪神大震災を経験しているらしくて、なんかこの「自分ひとりカッコいいだけじゃ終わらせられない」感じはその震災体験が効いてるのかなあ、って勝手に思ってしまいました。

っていうか震災時彼は小6だったらしく僕は高1だったんで、「え?4歳しか違わないの?」っていうのは衝撃が大きすぎますが(笑)

ただ僕もなんか時々インタビューとかで話してますが、若い頃の震災体験があることで、「単純に世の中そうなってることの内側の範囲」だけでは終わらせられない「タガ」を精神にはめられたような感じがしてるんですよね。

鈴木亮平さんも、別に普通にイケメン俳優としてもてはやされて終わりでいいのに、変態仮面とか今回の作品とかを人生かけてやってる「そうしなければならない」エネルギーにはすごい共感するところがありました。

それは「個人だけ成功しても満たされない」というタガだというか、率先して冴羽獠が下ネタを言いまくることで、「イチ抜けた」的に「単にカッコいい男」になるんじゃなくて、新宿界隈に生きるあらゆる「あんまり正しくない人々」を「そのまま肯定」できる映画になっているという構造を生み出す源泉になってるのではないでしょうか。

それをしかも、「ポリコレ理論的な攻撃」を受けてもアカウンタビリティが果たせる形で実現してしまったのは本当マジですごいとしか言いようがないです。

めっちゃ良い作品だったので、ぜひ見てみてくださいね。

ちなみにこういう、「単に高みから民衆を断罪しまくる」ようなものでない、そういう「ほんとうのリベラル」の精神こそが、人類社会が真っ二つになっていく時代の新しい共有軸になるはずだ、というのは私が常々言ってきたことなわけですね。

そういう発想を「メタ正義感覚」と私は呼んでおり、クライアントの中小企業で10年で150万円平均給与を引き上げられた話から、社会問題まで横断してその手法について考察した以下の本なんかをぜひお読みいただければと思います。

日本人のための議論と対話の教科書

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここからは、ちょっと話変わるんですが「ジャンプ漫画」の映画化の話つながりで、映画「ハイキュー」がいつの間にかスラムダンク映画に迫りつつあるという話をします。

僕は疑いなく「スラムダンク」世代なんですが、10年前ぐらいに高校の部活の同窓会で、同期の女性が

「”部活”というものの醍醐味が詰まってて、真剣に全国目指してるのに理不尽なことが全然なくて、お互い助け合ってて、すごい新しい世代を感じる。」

って熱弁してて、「へえ、そういう世界があるのか」と思ってたんですが、いつの間にか「ハイキュー」の映画がこのまま順調の伸び続けていけばスラムダンク映画に近い成績になるかも?みたいな話を聞いて、「マジで?」と思ったので今月見てきたんですよね。(漫画も全部読みました)

なんか、スラムダンクとハイキューって、種目が違うし絵柄も時代の変化を感じるんですが、すごい共通項のある漫画だと思うんですよね。

でも、スラムダンクにあった「今から思うとなんで殴り合ってるのかわからんヤンキーたち」の描写は(多少ありそうだがほとんどなくなって)いて、でもその分社会の中の”色んな生き方”の解像度が高く描かれているからこそ成立している新しいストーリーってのがあるなと思ったんですよね。

そのあたりの、「スラムダンクにあった過剰な暴力性」がなぜハイキューでは消えているのか?そこにどういう「配慮」があったからこうなってるのか?

という話を考察したいと思っています。

ちなみに、ハイキューの作者さんもこの漫画連載立ち上げ時にまさに東日本大震災を経験して、その影響が色濃く出ている作品だという話もあるらしく、なんか「個人だけ格好よくてもダメ」っていう今回記事で書いた話に共通するものがあるのかもですね。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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