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神戸から27年

『他の為か 自分の為か問うた日々 1995 神戸の夜に』


阪神・淡路大震災から27年。

あの頃私は、東京で学生生活を送っていた。

1995.1.17、友人宅に集まって女子会を開いていた。

朝から流れるニュースに釘付けになり、「私たちに出来ることはないか」と話し合った。

私には淡路島出身の友人がいて、連絡が取れなかった(後日、上京していたと知る)。

数日後、神戸・御影公園でボランティアをしている団体を知り、女子3人とその弟1人(高校生)で、テントと寝袋を担ぎ、青春18きっぷで神戸を目指した。

電車で行ける所まで行き、徒歩でたどり着いた頃には夜7時。辺りは真っ暗で、公園内の空いている場所にテントを設置して、とにかく眠った。

寒くて眠れない初日の夜。六甲おろしが冷たかった。


私たちには帰る場所がある。

しかし、家も仕事も家族も失ってしまった方がたくさんいた。

約1ヶ月、御影公園で生活をし、ボランティア活動をしていたが、毎晩、みんなと「ボランティアは誰のためなのか」を議論していた。

疲れた体と心で集まり、

「人の為にって動くけど、結局、自分の為なんじゃないか!」と声を荒げる人もいた。

たくさんの出逢いと体験があり、見たこともない世界があって、「生きること」を真剣に考えた20歳だった。

同い年の若者が、建物の下敷きになったり、誰かを助けるために火災の中へ飛び込んでいったり、家族を失い、公園で一緒に生活していた子もいた。

私はこのままで良いのだろうかと、自問自答を繰り返した神戸の夜だった。


神戸から戻った時、東京の街はすでに神戸を忘れていた。

私たちは浦島太郎の気分だった。

その後、私は学校を辞め、地元へ戻り、朝から晩まで働いた。

[生きている限り、精一杯やりたいこと]に出会ったのは3年後。

働きながら師匠の元へ10年通い、独立した年は東日本大震災。


震災で、感じること、考えることはそれぞれの心の中にたくさんある。

私は、今を精一杯生きることが、誰かの為になるのではないかと、勝手な想いを持っている。

だから、一つ一つ丁寧に生きていく。 

覚悟を持って、生きていく。

たまに弱音を吐くけれど、そこは耳を塞いでいてください(^_^)。