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日本のミチ。

↓長くなります。ごゆっくりどうぞ。

ISILのことをモンスターのように呼ぶ方はたくさんいらっしゃる。でも、あの大きな組織で、全員が「モンスター」化しているのだとしたら、とっくに崩壊している。貨幣経済の仕組みを理解して、西洋近代社会の根底を理解しているからこそ、巧みに兵力を維持して、人心をまとめ上げ、国々に恐怖を与えている。つまり、彼らは彼らの倫理において理性的であると言える。(もちろん、どの社会にも例外はあり、理性的でない方もいるが。)したがってモンスターと呼ぶのはエスノセントリズム(自民族中心主義)の一種と呼べる。それは右翼的だ。彼らは対話できる相手だ。

今回のISILの件に関わらず、「日本は、〜べきだ」論を展開される方はたくさんいらっしゃる。しかし、ほとんどの方はこの相対主義の世界において無根拠だ。傲慢だ。今や、倫理は、大文字の物語は存在しない。何か絶対のものがあって、それが成員の普遍的な格率になりえた時代ではない。倫理はデファクトスタンダード(≒自己循環論法)だ。それ自体に根拠はない。しかし同時に確かに存在する。けれども、文化ごとに差異のあり、それは世界の争いをそれぞれ肯定しうる。そのため、倫理をすり合わせることが必要だ。

大文字の物語が成り立たない世界でいかに異文化間の倫理をすり合わせるだろうか。鍵は共感性にあると思われる。

資本主義では人間の本質を利己性としている。つまり、人間は常に自己にとって最大の利益を望み、そう行動すると。しかし、それは真実ではない。惻隠の情にもわかるように、人間には確かに、他者を思いやる性質が(それが自己の利益でなくても)ある。それは人間が感覚できる結節点であり、それを思考できる開かれた動的な平衡であるからだ。(つまり人間は外部なしには存在できないため、純粋な西洋社会の主張するような自己はない。ただ、それらを言語、法、貨幣で自由にすることは可能。)それゆえ、人間が小さなものを憐れんだり、大きなものにつながっている感覚は本能的なものだ。つまり、人間は共感的なのだ。むしろ、それらを否定することは偽りだ。

日本人は、古来よりこの共感性が高いことを尊んできた。日本の文化を「日本文化」としてそれぞれの事象の集合のように捉える向きもあるが、それは正確でない。日本人の倫理というのは、共感性に基づいており、共感性を思考できる者によって更新されてきた。これは常に利己性との平衡であり、利己性を否定することではない。だから資本主義が明治期に根付くことに根本的な矛盾はなかった。

そして戦後、日本が国際社会において、戦争の責任を果たし、貢献するなかで、その共感性は大いに発揮された。海外で貢献する日本人の多くは共感性が高く、倫理的で、それゆえ日本人は愛され、「守るべき」存在となった。(現在の日本のポップカルチャーの熱狂的な人気は日本を愛する世界の人にとって、日本を再び守るべきところにしている。)

それゆえ、今、この時代においても、この共感性に従った行動が日本の安全を「保証」する。(「保障」ではない。)例えばだが、ISILの中にも日本のポップカルチャーが好きな人もいるかもしれない。友人が日本の援助を受けたかもしれない。日本人の友だちがいるかもしれない。それらを通じてみた日本というのが、果たして彼らにとって破壊するに差し障りない、取るに足りないところになっているのか。日本人は殺してもいい、くだらない民なのか。

その答えを否にする努力が私たちに求められている。また同時に、世界の国々が互いにしなければならないことでもある。それが分断された世界を救う。

畢竟、私たちが殺されても仕方ないと思われるようになったらいかに武力で誇っても意味ない。罪なき命は失われるし、罪なき命を救う活動をすることもできない。私たちは共感性を高め、倫理とは何かを思考し、異文化と対話し、共感的に振舞うことでのみ、希望があるのだ。

我が国の為政者には特に、是非ともそうしてほしい。

ひとり旅の資金にしたいと思います。 行ったひとり旅の写真はまたノートにするかもしれません。