言葉の向こう側
―― 帰省するときは早めに連絡するよ。
そう言った僕に、母は「待っているからね」と返してきた。
たったそれだけの会話。どこにでもありそうな、親子の会話。
なのに、大人げなく僕は泣いた。帰る場所があることや、待っている家族がいることが、嬉しくて泣いた。
二十年以上前。
僕は、こんなふうに自分が泣く日が来るなんて、信じていなかった。
複雑な家庭環境と、寂しさゆえに難解になっていた自分の性格に翻弄されて、居場所を失くしていたからだ。
そして、頼みの綱だった父方の祖母から、―― 女の子として生まれたのに、男みたいな姿になるなんて。その姿で二度と敷居を跨がないでほしい。
そう言われたのを機に、僕は人とつながろうとするのをやめた。
僕と仲良くなろうとして近寄ってくる人を、邪険にあしらうようになった。どうせおまえも俺から離れていくんだろう、と。
そのときに感じるであろう痛みを、その孤独を二度と味わいたくなくて、頑なに人を避けるようになった。
やがて月日は経ち、僕を理解しようとしてくれる人と出会った。
現在の師匠である。
すぐに心を開くことができなくて、随分と師匠には迷惑をかけた。なのに師匠は、適切な距離でずっと見守ってくださった。
関係性において何度も手を離したくなる僕の、人格を否定するようなことは絶対にしなかった。
そんな時間を重ねていくうちに、僕は師匠に対して、安心してすぐにお腹を見せる犬のようになった。その安心は、僕が幼い頃からずっと求めてきたものだったと、あとになって気づいた。
もう一度、自分の家族とつながってみることにしたのは、ほんの二、三年くらい前のことだ。
安心して自分でいられる時間が長くなるにつれて、やっぱり家族とつながりたくなったのだと思う。
試行錯誤したけれど、次第に連絡を取る回数が増えて、一緒にご飯を食べるまでに回復した。
それは僕にとって、長年の夢が叶った瞬間だった。
いつだったか忘れたけれど、母から言われた言葉に驚いたことがある。
「よく一人でここまで頑張ってきたね。母さんは、あんたのこと何も心配していないからね」
不意を突かれたこともあり、僕は、しばらく何を言われたのか理解できなかった。
なのに、勝手に涙が流れていた。しばらく、ずっと、流れていた。
言葉には、向こう側がある。
その言葉を使った人が生きてきた、人生がある。
表面上で言葉を理解することは、比較的容易にできることだと思う。
でも僕は、それを敢えてしたくない。
人生そのものを理解しようとする、大切な人とのつながりを大切にしようとする、そんな僕でいたいのだ。
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