発信してたら自分が見えてきた
意地でも書いてやる。
そう思いながら、これを書いている。
僕は「やる」と言いながら「やらない」ことが多々ある。
発信もその一つだ。
これまで何度か挑戦して、そのたびにやめてきた。
しかも、突然。
まあ、ひと言でいうと中途半端なのだ。
本来であれば、今日は前回の記事の続きを書く予定だった。
けれども、それをやるのは無理だと思った。
今いただいている仕事の原稿に夢中になっているため、頭のなかをパッと切り替えられる気がしないからだ。
決めたことを守れないのは悔しいけれど、ここで無理はしたくない。
というわけで、(どういうわけだ)今日のnoteはお休みにした。
これをここに書いているけれど、いつものようには書かない。
代わりに、別のことを書こうと思う。
今、2~3日置きにnoteで発信をしている。
そのなかで気づいたことがあった。
「自分の内側にあるものを外に出さないと、自分のことってわからんもんだな」ということだ。
今のように発信するまえは違った。
そんなことをしなくても、自分のことくらい自分でわかると考えていたのだ。
でも、それはちょっと違うのかもしれない。
少なくとも僕にとっては。
ここで言う発信とは、自己表現のことを指す。
自己表現をして自分の内側にあるものを外に出す、つまり可視化することで、はじめて自分とは何者かがはっきりしてくるように思う。
自分の内側にあるものとは、本音とか、生まれてきた理由とか、今世でやると決めてきたこととか、そんな感じのものだ。
仮に自分の内側にあるものを外に出さず、内に留めて自己完結した場合、自分のことがぼんやりとしかわからないのではないだろうか。
なぜならそれは、鏡に映った自分の姿をちゃんと見たことがないのに、自画像を微細に描こうをとするようなものだからだ。
いやいや、厳密にいうと、鏡を見なくたって自画像を描く手段はあるかもしれないよ。
でも、そんなこと言い出したらキリがないから、今回はちょっと勘弁してほしい。
話を続けたい。
ここまで書いておいて結論は1つしかないのだけれど。
ようするに、発信って自分を知るために適した手段だねってこと。
だから僕はこれからも、意図的に鏡を覗きながら、そこに映る自分の姿を見て、理解して、作品に活かしていきたいと思う。
ただし、一つ心配なことがある。
それすら中途半端に終わることだ。
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