見出し画像

学問をススメすぎない福沢諭吉「学問に凝る勿(なか)れ」から考える

こんにちは
今回も小川原正道慶大教授編『独立のすすめ 福沢諭吉演説集』から福沢の演説を紹介します。明治23(1890)年の慶應義塾大学部始業式の時の演説である「学問に凝る勿れ」を紹介します。大学部発足部までの経緯のところは省略して、彼が学問との付き合い方を論じた部分をメインに紹介します。

現代語要約

私(福沢)は非常に学問が好きで生涯の快楽は学問にのみあるが、これを好むと同時に学問に対して重きを置かず、人生の中の一芸でしかないと考えている。学問を学んで俗世間の事を知らないのは、碁打ちや詩人と異ならず、技芸の人には相違ないが、人生が完璧ではないといって事につけて極端に言わない者はいない。
 幸いわが校にはそういった変人奇人は少なく、現在の社会で頭角を現して学問で培ったものを実際に社会で用いている者が多いのは、非常に満足するところであるが、違う視点から見れば人間社会の不幸は不学無識よりはなはだしいものはない。上層階級にしろ下層階級にしろ、学問から得たものや思想がないがために、一個人の不利だけでなく社会全体の不幸を媒介してしてしまう者は数えきれないほどいる。

 法学を知らないで法律について議論し、経済学を学ばずに会計を担当し、自身に教育がないのに他人の教育を論じ、商法に暗いのに商業を営むような、不学のまま社会で活動することは、たとえそれまでの経験で上手くいっていたとしてもそれは偶然にしか過ぎず、社会のためには危険である。上層階級の不学のみでなく、下層階級の不学も危険である。事実無根のでたらめを信じて産業の利益を無駄にしたり、占いを信じすぎて家庭のことを誤るものもいる。

 すべて不学無術を原因とする人間社会の不幸であり、これを救う手段は教育だけである。常日頃、私がいう「学問に重きを置くべからず」というのは、学問を無益と言っているのではなく、人生において大切なものだが、学問を唯一無二のものと思って取り組んで、それだけに凝り固まってはいけないという意味である。
 「学問に凝る勿れ」という私の考えは、大学部においても変わらない。大学の学問も一つの芸であり、卒業後は学問を深く内に秘めて、様々な人々と交流して俗世間のことにあたり、自然と周囲を正しい方向へと導いていくべきである。古の英雄は武力をもって人を支配したが、我々士人(教養・徳のある人、あるいは社会的地位の高い人)は文をもって人を導き、ともに文明の幸福を共有しようとする者なので、今後やることがたくさんあることは言うまでもない。君たちが心身を活発にして強くもって取り組み、多くの困難に屈しないことを希望する。

考えたこと

① 学問(勉強)だって数あるうちの一つの芸

 『学問のすゝめ』で有名な福沢ですが、この演説だけでなく、「学問に凝る勿れ」といって、学問だけにのめり込みすぎるなということをよく言っています。学問を相対化する視点てとても大切だと思うんですよね。
 学歴社会となった現代において親は子どもの勉強面に視点が偏りがちだと思うんですよ。もちろん勉強は大切なんですよ。だけど、人には色んな能力がある。学問をする力は様々な能力の中の1つでしかないんです。勉強以外の能力をしっかりと認めてあげることが、学力向上の秘訣だと思います。

② 教員がよく言う「文武両道」という言葉は好きじゃない

 教員て勉強だけじゃなく部活動も頑張れっていう文脈で「文武両道」という言葉使いますよね。学問が一芸ならば、武(スポーツ)だって一芸じゃないですか。まあ、使っている人は特に意識してないんでしょうけど、この言葉には他の芸が入ってないじゃないですか。音楽とか美術とかダンスなどなど。別に文武じゃなくても、文楽、文文でもいいと思うので、学問以外に色んな芸に子供には取り組んで欲しいですね。

③ 学問をすることと実社会で働くこと

 福沢は学問をするだけでなく、実社会にもまれ活動していくことを大切にしてますね。学問は理論が中心なので実社会ではその通りにいくことはまずないですよね。だから学問で学んだことはいったん内に秘めなければならない訳です。
じゃあ、うちに秘めて学問は役に立たないのか?
そうではないと思います。
どのような学問であっても真剣に学べば、学問を通じて培ったその人の知性や徳性が、実社会でもまれ様々なことを学んでいく中で発揮されると私は思います。学問で得たものはすぐに役立つものではないかもしれないけど、その後の人生を支え、成長させていく土壌となっていきます。日本の大学生は世界一勉強しないなんて言われますが、嘆かわしいことです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?