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藤原北家の台頭ー『光る君へ』の前史~高校日本史「学習プリント」⑩つき

こんにちは コウちゃんです
今話題の大河ドラマ『光る君」の前の時代を解説していきます。どのように藤原北家がが台頭し、摂関政治が成立したのか流れを追っていきましょう。画像は菅原道真が祀られている北野天満宮です。

フローシートの構成

 平城太上天皇の変から始まる藤原北家の台頭を摂関常置に至るまでの過程をまとめました。現在放映中の大河ドラマの1つ前の時代ですね。藤原氏は天皇家と姻戚関係を結んで勢力を伸ばし、ライバルとなる貴族たちの勢力を排除していきました。その動きを北家の中心自分を軸に見ていきましょう。

解説

① 藤原冬嗣

 平安時代の北家の台頭の基礎を築いたのが藤原冬嗣です。彼は平城京の平城上皇と平安京の嵯峨天皇が対立している中、天皇の命令を素早く太政官に伝えるパイプ役として蔵人頭に任命されました。平城太上天皇の変で式家の仲成薬子が滅んだ後、嵯峨天皇の信任を受けて急速に出世し、弘仁格式の編纂などに携わりました。また、藤原氏の大学別曹(子弟のための教育機関)である勧学院を設立し、一族発展の基礎を築きました。

② 藤原良房

・承和の変(842) 
 冬嗣の次男の藤原良房も嵯峨上皇の支援の下、出世していきました。嵯峨天皇が死去すると皇位継承をめぐる事件が起きます。842年に起きた承和の変です。皇太子であった恒貞親王を擁立して伴健峯・橘逸勢(三筆としても有名、かつ空海と一緒に遣唐使にも行っている)が謀反を起す計画が露見して、流罪となりました。恒貞親王は直接関係していなかったのですが、皇太子を廃され、新たな皇太子として仁明天皇と冬嗣の娘の子である道康親王が皇太子となりました。この事件の背景には桓武天皇以来の皇位継承のあり方があります。桓武以降、平城→嵯峨→淳和と兄弟間での皇位継承がなされており、皇太子の恒貞親王は仁明天皇の子ではなく淳和天皇の子でした。この事件はかつて良房の陰謀という説で語られてきましたが、現在は仁明天皇の関与なども考えられています。この変の結果、嵯峨-仁明皇統での直系継承が成立します。

・応天門の変(866)
その後、道康親王は即位して文徳天皇となり、良房は太政大臣となりました。しかし、文徳天皇は若くして亡くなり、文徳と明子の子である幼少の清和天皇が即位します。日本史上初めての幼帝(9歳)です。そこで天皇の外祖父となった良房は事実上の摂政として政務をとるようになりました。866年に平安宮の朝堂院の正門である応天門が焼失するという事件がおきました。当初、放火犯として左大臣源信に疑いがかけられましたが、大納言伴野善男が犯人であるという証言が出てきて、伴善男や紀夏井ら伴・紀氏らが処罰されました。これを応天門の変といいます。この際に良房は清和天皇に正式に摂政に任命されました。晩年の良房は貞観格式の編纂に取り組みました。

③ 藤原基経

 良房の跡を継いだのがその養子であった藤原基経です。彼は奇行も多かったとされる陽明天皇を譲位させ、本来天皇になる予定のなかった高齢(55歳)の光孝天皇を即位させます。これに報いるために、天皇は基経を関白に任じました。光孝天皇死後、一度皇籍を離脱していた宇多天皇が即位しました。宇多は父と同じように基経に対して政治を助けるように勅書を出しますが、基経はその勅書の中の「阿衡」という語を名ばかりで実権のない職を指すと抗議して、政務を放り投げてしまいました。これに困った宇多は勅書の起草者の橘広相の責任として勅書を撤回し、改めて基経を関白に任命しました。これを阿衡の紛議(888)といい、関白の政治的地位が確立しました

④ 寛平の治

 基経が亡くなった後、宇多天皇は摂政・関白を置かず親政を始めます(寛平の治)。基経の子である藤原時平に対抗させるために、文人官僚の菅原道真を重用しました。醍醐天皇に譲位する際も、時平と道真を重んじるよう詔書を出しています。時平が左大臣、道真が右大臣となり、醍醐天皇の親政である延喜の治が始まりましたが、道真は時平に自分の娘婿を天皇に即位させようとしていると讒言され、太宰権帥に左遷され、現地で亡くなりました。これを昌泰の変といいます。死後、道真は怨霊として恐れられ、これを鎮めるため京都に北野天満宮、その墓所に太宰府天満宮が建てられました。江戸時代に道真は学問の神(天神)として広く信仰されるようになります。

⑤ 延喜・天暦の治

  その後、時平は醍醐天皇の下で政治改革に着手し、延喜の荘園整理令(902)、『延喜式』の編纂などに携わりました。その他にも延喜の治の差異には六国史の最後である『日本三代実録』『古今和歌集』の編纂などが行われました。
 時平は若くして亡くなってしまい、その後、弟の藤原忠平が朝廷の中心を占めるようになります。醍醐天皇の跡を継いだ朱雀天皇の摂政・関白を務めました。この時に、平将門・藤原純友の乱にも対処しています。
さらに次の村上天皇のもとでも関白を務めますが、老齢になりなくなります。その後、村上天皇も親政を行い、天暦の治と呼ばれます。醍醐・村上天皇の親政はのちに「延喜・天暦の治」と理想化されることになります。天暦の治に関しては、最後の皇朝十二銭である乾元大宝が発行されたことだけ抑えといて下さい。

⑥安和の変(969)

 村上天皇の死後、969年、源満仲の密告により左大臣源高明(醍醐天皇の子)が謀反の疑いで左遷される安和の変が起きます。この政変の真相はよく分かっていませんが、北家の政治的地位は不動のものとなり、その後はほとんど常に摂政・関白がおかれ摂関政治が展開されていくことになります。
 以上、北家の台頭から摂関政治の成立までの流れでした。ポイントとなる政変を関係する人物と排除された人物をセットにして抑えていって、流れをつかんでいってください。以上、大河ドラマ『光る君』の時代へと移りたいと思います。

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