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ケア理論という広大な領域で迷子にならないために。

「ケア」をテーマにした読書・対話会を開く。なので、ケアの文脈について、ある程度、整理しておきたい。内容に関して、個人の理解で書いているので、どこか間違いなどあるかもしれません。その際は、ご教示いただけるとありがたいです。


読書・対話会についてはこちら

読む本は、小川公代さんの「ケアの倫理とエンパワーメント」



さて「ケア」という膨大な領域を扱うときにまず着目したいのが源流。どんな文脈で、どんな人がいいはじめたことが、現代に影響しているのか。まずは、源流での発見をシェアしたい。※源流は自分が勝手につけているだけで、学術的に誰かがいったわけではありません。

ソースは京都大学の安井絢子さんの論文その他の論文、ウェブ記事などを読んでいます。正直、安井さんの論文を読めば概ねわかるので、ぜひこちらを参照してください。


ケアの源流①:哲学者メイヤロフ、「ケア」という概念の提唱


まずケアという概念に光を当てたのがメイヤロフだった。メイヤロフは学者や科学者ではなく、哲学者。


メイヤロフは、ケアリングとは「もっとも深い意味において、他の人格の成長と自己実現を援助すること」だと定義してる。哲学って人を動かくOSみたいなもんだから、その概念をだしたことに価値があったのだと感じた。メイヤロフは、ケアについて定義づける。一個一個追えないので、要素の14個だけ言及しておく。

1 差異の中の同一性
2 他者を価値あるものとして経験すること
3 他者の成長を援助すること
4 関与と受容性
5 献身
6 他者の永続性
7 ケアリングにおける自己実現
8 忍耐
9 結果に対する過程の優位
10 信頼
11  謙遜
12 希望
13 勇気
14 責任における自由


メイヤロフの視点はしばしば、ケアする人からの視点だとかかれていると論じられていた。ケアする人に、プラスしてケアされる人の視点からも考察し、関係性を論じたのがノッティングスだと。


けれど、自分の拡大解釈でいくと、ケアするとケアされることは利他と利己がまじりあった世界観で、与える、もらうの関係でなく相互関係なのでは?と伝えてる印象をもった。安井さんもここら辺をメンションしてると感じた。



ケアの源流②:教育学分野ネル・ノッティングス「ケアリング」


ノディングスによると、「人は、ケアすると同時にケアされていて、ケアする人もされる人もお互いに貢献しあってる関係性」なのだと。

ケアはもともとラテン語のcura。とある方のブログで、上野千鶴子さんのケアの社会に書かれていたcuraの意味について述べている。もともとは、ケアする側の「重荷としてのケア」と「気遣いのケア」の対立する二つの意味があったらしい。 ケアの領域を調べている、ケア論はケアする人からの視点で論じられているよねっていう話。その中で、ノッティングスが、ケアする人に、プラスしてケアされる人の視点からも考察し、関係性を論じた、と言われているみたいだ。

調べたら、さすが安井さん。ノディングスについても論文書いています。安井さんいはく、ギリガンの考え方をもとに理論体系を作ったのがノディングスとのこと。

ノディングスは、ケアリングを自然的なケアリングと倫理的なケアリングがあると定義した。(詳しくは、安井さんの論文を。。。)


ケアの源流③:発達心理学ギリガン:「ケアの倫理」〜もう一つの声〜


そもそも発達心理学とは、心理学の見地を、子供から老人までどのような精神的な発達をしていのか、という長い時間軸も心のうごきとともに考える学問だと捉えてる。


さて、ギリガンは発達心理学を学んでいた。そして、その領域では有名?なロールバーグを師事していた。ロールバーグは発達心理学の領域で、人はどのような道徳的な発達をするのかという研究をしていてた。


その中で、ギリガンはロールバーグの研究の解釈に疑問をもつ。


詳しくは割愛する。(詳細は安井さんの論文)
端折っていうと、男性の道徳の解釈と女性の道徳の解釈が違うのにもかかわらず、男性の道徳の解釈が優れていると結論づけるのはどうなんだの?という視点だ。この事例を「ハインツのジレンマ」といよぶ。


ギリガンは男性的な道徳解釈を正義の倫理とよんで、女性的な道徳解釈をケアの倫理とよんだ。ここでの倫理は、人を動かす哲学やOSと置き換えて考えてもいいとおもう。しばしばギリガンとフェミニズムの結節点はこの正義の倫理とケアを倫理の提唱からはじまったとおもわれる。


※しばしば、この解釈によりギリガンは批判にも晒されるとのこと。ギリガン自体が男性に沿って女性の解釈をしているんじゃないかと。自分はそうは思わなくて、ギリガンが話をしてるのは「構造」の話で、構造を作ってるルールがそもそもおかしい場合もあるよねっていう風に捉えました。



特にメンションしておきたいこと:対立を作らないために。


ケアの倫理 ネオリベラリズムへの反乱という本から

ファビエンヌ・ブルジェールはフランス・モンテーニュ大学の教授で、哲学で教鞭をとっている。ブルジェールは、特にギリガンとノディングスの違いについて言及している。

「私的なことは政治的なこと」というスローガンを掲げるフェミニズムに依拠しつつ、「ケア」の倫理は、多数派の声を批判する。多数派の声とは、しばしば男性の道徳的思考であり、原理、すなわち具体的ではない価値の集合から成り立っている。それに対して、「ケア」の倫理は、もう一つの少数派の声であり、女性の経験、他者への責任への感情に存在していて、「配慮すること(caring)に訴える。
 1908年代、この主題に二つの異なる理論が取り組んだ。一つはキャロル・ギリガンの「異なる声」であり、もう一つはネル・ノディングスの「ケアリング」ギリガンの倫理の議論は、その当時の状況を明るみにし、社会科学の進展を推し進め、「ケア」の概念をめぐってフランスにおいても政治的議論を引き起こした。
他方、ノディングスの理論的志向は、「ケア」のメッセージを混乱させてしまった。それは、あらためて、女性の本質、アイデンティティは母性に根ざすとされ、女性の仕事とされた配慮を通して形成されると人々に信じさせることになってしまった。


ブルジェールは、そこそこノディングスを批判している。というのも、ケアという語感が持つものは、一般的には、母性や女性をイメージしちゃう。そのイメージの固定化に寄与させてしまう方向性ではないか、っていうのがブルジェールのいっていることだ。


よくケアの倫理に関わる分野を調べると、正義の倫理とケアの倫理、男性と女性、父性と母性、など、あたかも対立関係にあるかのように見えちゃう。が、本質的には、二項対立ではないということがよくメンションされている。ブルジェールの本に書いてあったが、序列ではなく類型。分断ではなくて、どんな多様性があるかの話ってことは、ケアの倫理を学ぶ人は注意したほうがいいかと。


そういう意味では、ブルジェールにとって、ノディングスは対立的に見えてしまう考え方だったのかもね。


なぜ源流という言葉をわざわざ使っているのか。



アカデミックやサイエンスの世界に片足をふれたものとして、文脈を大切にしています。なぜここまで文脈や源流っていうと、ちゃんと理解したいからなんです。サイエンス、という響きに万能感をもつのは視野をせばめる可能性があって。科学ってあくまで、ある条件下において再現可能っていうことなのです。「ある条件下」を見逃すとまったく意味がかわってきてしまう。


もう一回いう。
科学って、絶対じゃない。
むしろ科学をいいように使われてきた歴史もあるからね。



だからこそね、ちゃんとしるっていうプロセスだけが、人の知性や思考に深みを与えるとおもっています。インターネットっていう「点」の文化において、「文脈」っていう線や面の文化は、見逃しやすいし、まどろっこしい!からあんまみたくなかったりするのだけれど。


最近、とある方と対話した時に、「自分が行ったところまでしか、人を連れて行けない。深く潜った分だけ、次の人が切り開く部分も深くなる。」っていうようなことをいっていて。その通りだなと思いました。与えられるものは、与えられたものなので、どんどんギフトしていきたいし、深みに行きたい。いろいろ調べるのは大変だけど、、、笑 


源流を調べた結果、自分の考え方的には、ギリガンが良さそうで。今後は、ギリガンに寄り添いながら深めていこうかと思いました。

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