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中心化の論理~ローレンス・シルバーマン(1)に寄せて

子どもが聞きました「改心ってなあに?」
親が答えました「あっちからこっちへ来ることだよ」
子どもが聞きました「裏切りってなあに?」
親が答えました「こっちからあっちへ行くことだよ」

昔、何かで読んだ話です。今回でようやく私の「ローレンス・シルバーマン(1)に寄せて」も最後になります。庵忠名人、ありがとうございました。

寄らば大樹

長尾達也氏の言う「中心化論理」をまず私なりに解釈してみましょう。

まずは庵忠名人の引用を孫引きしますね。

何か中心になるべき価値観や基準を設定し、それに基づくものを正常とみなし、それから逸脱するものを異常とか劣ったものとみなして、中心となっている正常なものに同化させる

ということは、中心化論理を簡単に言えば、「寄らば大樹」です。そして、自分が寄っているものを大樹とみなす試みです。

ラッコが流されないように昆布につかまって眠っているのってかわいいですよね。昆布につかまれないラッコが昆布につかまっているラッコにつかまっているのも可愛くありませんか?

人間は自分に似ているものを可愛いと思います。ただし、人間がつかまるのは昆布ではありません。

「あんな子と遊んじゃいけません」
親は子どもに幸せになってもらいたいからこそ、中心的な価値や基準から外れてほしくないと願います。
そして、良い子は、中心化こそが生きるうえで大切なことだと学びます。
そんな親の願いに過適応した子どもは、「あんな子」をいじめるかもしれません。

私は以前、こんなことを書きました。

これって確かに難しいんです。選挙で負けると分かっていることを誰がやるでしょう。私だって世界中のマイノリティのために日本が散財して日本国民が飢えてもいいとは思えません。

中心化の効能

①思考を省略できる
いろいろな中心化を使って人間は生きています。すべての事柄を都度いちから考え、判断するのは非常に非効率的です。それに対し、「普通」を決めてしまえば、それを省略することができます。

例えば、「おはようございます」と言えば相手も「おはようございます」と返してくれます。当然のことですよね。
でも江戸時代にこんな文化はありませんでした。
「Hello」「Goodmorning」のような西洋文化を日本に取り入れるべく政府が頑張った成果です。

落語などを見ると分かりますが、人と人が出会うときの声掛けはこんな感じです。

「おっ(あなたに気付いたよ)
はっつぁん(あなたははっつぁんだね)
早いね!(あなたを見て私はこう思ったよ)」

もし、こんなコミュニケーションを会社の同僚全員にやらなければならないとしたら、いかがでしょうか。それを考えるだけで出社前のひと仕事になりかねません。

あいさつの概念を中心化したことで、思考を省略することができた典型例かと思います。※この辺りのことについてもっと詳しく知りたい方は以下をご参照ください

②費用対効果を高める
ノーマライゼーションやバリアフリーにはお金がかかります。
それは、税金や商品価格に反映するかもしれません。
自分には必要ないそれらのお金を、どこまで許容できるでしょうか。

同じお金をかけるなら、1割しか使わない機能よりも、8割の人に役立つところにお金をかけたほうが合理的ではないでしょうか。

中心から外れざるをえないときもある

以前、四谷の坊主バーに行きました。

「極楽浄土」なんて名前のカクテルもありました。興味のある方はぜひ。

そこで、目の見えないお坊さんが相手をしてくれましたが、彼はこう言いました。

「目が見えなくなってから、とても不便になりました。でも私は目の見える間、目が見えない人に便利な世界を作ってこなかった。今の不便さは、私が作った不便さなんです。」

中心化論理に対して同じ中心化論理を振り回す

長堀氏の言っていることを、そのままやっているTwitterがありました。

現在は、同性婚を認める方向が世界の潮流ですが、それをもってか、Twitterの主は同性婚を否定する4コマ漫画を「とんでも」「絶句」と評しています。

一方で4コマ漫画では、「女性の社会進出は少子化を進めている」、「(同性婚は)正気の沙汰じゃない」と言っています。

ここから、建設的な何かが生まれるとは思えません。

帰納と演繹は繰り返すものです。前提としたルールに当てはまらない事実や意見を無きものとして演繹を押し通すことではないはずです。

コミュニケーションとはお互いが変わること

コミュニケーションには2種類あります。
一方にしか変化がないコミュニケーションと、双方が変化するコミュニケーションです。

一方しか変化がないコミュニケーションとは、命令や、単なる情報提供です。

私は変わらない。お前が変われ。
これでは、どちらが命令できるか、上の取り合いです。力関係が変われば一気に形勢が逆転しかねません。

目指すべきは、双方が変化するコミュニケーションです。

それは、立場の主張ではなく、困っていることの共有です。お互いの前提の確認です。

中心化自体は便利なものであり、悪いものではないと思います。ただ、そこに「それから逸脱するものを異常とか劣ったものとみな」すことが余計なのです。

敬語は、正しい文法を分かったうえで、あえてそれをずらすところに配慮が生まれます。困りごとを相談してきた人に「あなたの敬語は間違っている」と指摘していたら、相談する気も失せるというものです。

私は同性を好きになる気持ちが分からないけど、そうなのね。
私は子どもが産めないけど、何かできることはあるかしら。
※ちなみに同性婚でも子どものいるカップルはいます

他罰的でもなく、自罰的にもならず、合目的的にコミュニケーションしたいものです。

長々うだうだと理屈をこねくり回しましたが、ようやく言いたいことが整理できました。

こんな機会を与えていただき、ありがとうございました。










世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。