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僕と大川小学校~3.11を学びにすること~

1.このnoteをなぜ書いたか?

 とてもセンシティブな内容なのかもしれない。だから発信することをためらって居た。理由はこの2つだと思う。 

①あの日救えたかもしれない74名の児童の命と、10名の先生方が亡くなった。本当に悲しく、そして無念な出来事であること。 
②多くのことが真相不明となっている状態で、様々な憶測が飛び交っている。教育委員会も事実を隠蔽していると捉えざる終えない状況であるためはっきりとしたことは言えない部分が多い。また裁判にもなっていることもある。 

これから書くことは、僕が聞いたことでしかなくて、事実かどうかは正直わからない。言い切れはしないものかも知れない。

 それでも僕は、あの日のことを伝えたいと思う。あの日の校庭には「あなた」も「僕」も、いつも立っていると思うから。

 それでも僕は、あの日のことを伝えたいと思う。あの日の校庭に自分で立って語ることから、欲しい未来が見えると思うから。

ちょっとした勇気で今日はこの記事を書きます。

「未来を拓く」ために

2.僕と大川小学校の出会い〜敏郎先生との出会い〜

 東京都出身、神奈川育ち。僕は大川小学校に、そして東北に、親戚や友達が関わっている訳ではありませんでした。そんな僕がなぜ大川小学校を語るのか?それは佐藤敏郎さんとの出会いがあったからです。
 敏郎先生は、娘さんを大川小で亡くされ、また当時中学校の先生でした。「遺族」という立場、「先生」という立場。両方の立場だからこそ、大川小学校に向き合える向き合い方があると、大川小学校で語り部を行なっています。その一環として、NPOカタリバで、「3.11を学びに変える旅」という震災学習を行なっていて、その旅の運営を、僕は大学2,3年生の時に行なっていたことが大川小と僕の出会いの始まりです。

▼佐藤敏郎さん

・「防災は生き方を考えること」=佐藤敏郎さんインタビュー
https://www.collabo-school.net/news/trip/2017/06/06/20858/
・【レポート】「3.11を学びに変える旅」〜立命館高等学校の場合〜
https://www.collabo-school.net/news/trip/2017/01/17/20077/


 僕にとって大川小学校とは、「自分の大切にしたい人としての理想を感じられる場所」です。だからこの記事を書いてみたいんです。

 遺族じゃないし、被災者でもない。だからこそかけることもあると思うから。いろんな人へのリスペクトを前提として。

3.あの日何が大川小学校で?

 あの日大川小で何があったのか?この詳細は公式には不明であることも多いですが、下記のようなことが基本的なことであると認識しています。

・地震から51分間の時間があったけれど、逃げることができなかった。
・地震後、校庭に集まり、最後の1分間まで校庭で待機、最後は津波に向かっていく形で多くの方が亡くなった。
・1分間で逃げれる裏山に逃げれば助かった。裏山は実習で登っている。
・津波がくるという情報は様々な方面から得ていた。
・海から小学校までは4km離れて居た。

・大川小学校についての情報
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html

4.なぜ逃げれなかったか?

 逃げられる場所と、津波が来るという情報がありながら、なぜ逃げれなかったのか?と思う人の多いのではないでしょうか?僕もはじめ思いました。なんで逃げれなかったんだろうと。そこでちょっとリアルに、あの日校庭に居た児童のことや先生たちのことを考えてみようと思い考えてみました。

【児童の想定できる状況】
児童は小学校1年生〜6年生地震があったあとで怖さを感じて居た児童
その怖さを感じている児童をまとめる上級生
走って裏山に向かったけれど、先生に校庭へと戻された児童
先生どうするの?って思っているけれど、聞けない児童

【先生たちの想像できる状況】
先生は11人
当日は校長が不在
「裏山に逃げましょう」という先生は居ただろう・・・
自分から意思決定することは責任が伴って怖いよな・・・

なぜ逃げれなかったのか?きっと多くの先生や児童は思っていたはず。

「裏山に逃げればいいのではないか?」と。でもそれでもなぜ逃げれなかったのか?それは人間が心を持った生き物だからなのかも知れない

5.救えた命、でも救えなかった命

それでも、あの日の校庭には、救えたはずの命があった。でも救えなかった。だから今でも虚しくやるせない気持ちが湧き上がってくる。

それでも、だからこそ敏郎先生はいつも言っていた。

この悲しみを悲しいというだけで悲観するんじゃなくて、学びにしたい。大川小の校庭に、いろんな人が立っていろんなことを感じて、そして自分の立場から、大川小について語ることから未来は拓ける。

だから僕はあの日の校庭で学んだこと、そして教えてもらったことを噛み締めながら日々過ごしたいと思っています。

6.僕があの日の校庭から学んだこと

 あの日の校庭から僕が大切にしたいと思っていること。そのために人として成長したいなって思うこと。

①対立でなく調和・和音を奏でる。

 国会やメディアはいつも対立構造を生み出そうとしている。「言ってはいけないこと」「タブー」「炎上」「叩く叩かれる」いつもそれが24時間365日はびこっている。きっとそれではあの日、「裏山に逃げよう!」という声を51分間の間にあげることはできないと思う。出る杭が打たれる文化では・・・

「対立ではなく調和を。自分の持っているド、レ、ミ、どの音かわからないけれど、出してみて、その場にいる人たちと和音を奏でればいい。」

そんな敏郎さんが語る言葉をいつも噛み締めながら過ごしています。まだまだ人の意見を聞き入れることが苦手です。でも変わりたいんだやっぱりって思ってます。

②想定外が起こった時に我々の力は問われる

「想定外が起こる時にどういうチームであれるか?」いつもそのことを考えるようになりました。あの日想定外の地震が起こって、「裏山に逃げよう!」と言えるには何が必要だったのか?きっとそれは日常での人と人の繋がりの強さです。安心感があって、自分の意見をその場に出せるか?自分の意思で行動できる勇気を持てるか?常にチームを作ることに意識しているところです。まだまだ未熟ですが、自分自身のことを受け入れながら変わっていきたいと思います。

7.最後に

最後に、「なぜ逃げれなかったのか?」という問いとともに持っている問いを綴ってこの文章を終わりにしたいと思います。

あの日の校庭にいつもあなたはいるかも知れない。
そんなあなたは「裏山に逃げよう!」と言えますか?
そしてそれはなぜですか?

今日は、8回目の3.11。あの日の校庭に神奈川にいながらも立ち、そして自分のあり方や生き方を見つめる今日にします。

悲しみを強さに、悲観することだけでなく、やっぱり僕は学びにしたいから。

そして本当の最後に、

あの日の大川小学校の前には、子どもたちが笑顔で遊んだ学びの場があったことも忘れたくない。それが失われたという感覚こそ、僕が一番忘れたくない気持ちです。今では悲しい場所だけれど、悲しいだけの場所じゃないってことを。

読んでくれてありがとうございました。

Photo at 宮城県 石巻市 大川小学校 by Kei Takahashi

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