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才能って自律性のことじゃないかと思う

大っぴらに天才とか才能の話をすると人それぞれすぎて大変な議論を呼ぶイメージがあるのですが、ここではあくまで筆者自身の「才能」観の話をしているよ、と最初に書いておきます。

高校までの才能って

雑誌やSNSなど、広義の短歌界隈にいると頻繁に才能という言葉を目にすることが多い。

主に「この作者は才能がある」と公募などで選ぶ側の人々が言っている印象だが、高校まで私は才能という言葉を半ば禁句のように思ってきたので、ああこれは言っていい言葉だったのかと軽い驚きのような気持ちがあった。

高校まで勉強一筋の人生を送ってきた身としては、5教科において才能があるかないかという話をしないということを自身に科してきた。

それは言われた側/言われなかった側を傷つけるからでもあるし、勉強が才能に影響されるかどうかは遺伝や環境に直結するセンシティブな問題だったためでもある。
そもそも高校生の志望校や志望する進路は、仮に才能というものが存在したとしても、才能の有無にかかわらず目指されるべきものだと思っていたことが一番だった。もちろん最年少や世界一を目指すなら考えないといけないかもしれないが。

だから自虐だとしても自分に才能がないというような呪いは吐かないようにしていたし、そんなことを言うくらいなら一秒でも勉強しなければと思っていた。

この状況が一変したのが短歌界隈に片足を突っ込んだ時だった。


才能と再現性

私は高校の時から短歌を詠んでいたものの、大学一年まではあまり他人と交流を持たず、歌集すら全くに近いほど読まずに黙々と歌を詠み続けてきた。
わせたんに入ったりSNSを始めたり、歌集や短歌雑誌を買い始めたりした=「界隈」を知ったのが2023年に入ってからで、そこで才能という言葉を多く見聞きすることになった。

最初の衝撃を受けたのは短歌の新人賞の発表号で選考委員が「この作者は才能があると思いました」というような発言をしていた時だった。

もちろんその賞のなかでは世界一を決めているわけだから才能という言葉が出てきてもおかしくはないのだが、小説や漫画で題材にされる「才能の有無」という評価軸に私の利き手が突然乗せられたような気がした。

かくして当事者意識を持って「才能」というものを考え始めたわけだが、どことなく短歌で言われている「才能」は勉強で言うところの才能、あるいはあの人は天才だ、みたいなものとは少し違うようだと分かってきた。

高校の頃に抱いていた「勉強の天才」像は、好奇心がずば抜けていたり記憶力が人並外れていたりと差があるものの、いつか他の人間も辿りつく場所に他の人間より先に辿りつく人のことだった気がする。

(補足:才能を持っていればすなわち天才なのかという議論は私自身整理しきれていないので、ここではひとまず天才のことを「才能があり、それを特定の分野において発現させている人」と読み替えることにする。)

例えば数学の理論を打ち立てるにしても、それが正しいと追認する人間がいないと天才性は証明できないのだ。法律や経済も、たとえ提唱したときには一人きりでも、将来にはそれを理解して使う人間がいて、再現性がなければいけない。

一方で短歌には再現性がない。というか多分、あったら困る。

じつは感傷的な短歌にはレシピがあって一定の語群からランダムに選んだ単語と助詞の組み合わせで云々、とか言われたら感傷的な短歌を作る気はまずなくなるのではないか?


短歌の自律性(?)

それでも、(天才と呼ぶかどうかは別の話になりそうなのでさておき)才能があるのだろうと思う歌人はいる。

そもそもの前提として、短歌で目指されるゴールは理論が存在するフィールドよりもはるかに多彩だと思う。日常の記録をしたい人、特定のイメージを言葉にしたい人、言葉遊びをしたい人など本当に様々だ。
私がプロフィールを見たことのあるネット歌人はおそらく1000人を優に超えるのではないかと思う。同じ方向性の歌を作っていると思うことはあれど、全く同じだから作る必要ないな、と思うことは自分自身の歌を含めて本当に一度もない。

だとしても、なんとなくこの人はずっと作るだろうなと直感をもつ人がいる。

うまく言えないけれど才能と呼ぶにはこの感覚が最も近い気がする、という歌人がいるのだ。歌人ですらないのかもしれない。人格から離れた短歌群とでも言おうか。

これは一首ずつの歌の良し悪しとはそこまで関係がなくて、個人的な好みとは全くと言っていいほど関係がない。多くの人が共感できそうかどうかでもない。

また、それぞれの歌人の個性はそれぞれの歌人の個性として絶対に大事にされるものであって、本当に、二度と替えがきかないことはよくよく知っている。その上で才能に近いものがある、ということだ。

(ちなみに最近短歌が上手くならない、やめようかなと言っている人を身のまわりで目にするが、頼むからやめないでほしいと常々思っている。観客のわがままであるのは分かっているので直接言いに行くのは控えているけど。これに関してはnoteが一本できあがるほど引き留め文句があるのでここではあまり言及しないでおく)

「ずっと作るだろうな」というのは実際に毎日詠んでいるというわけではなく、何度やめて再開してもこの人の色が絶対に色濃く出るだろうな、という感覚に近い。悩んだ末、これは「自律性」という言葉で言い表せるのではないかと考えた。

作品に自律性がある、と思う、特定の歌人から生み出される短歌群がある。

読んで字のごとく、作者がいなくなっても踊り出しそうな作品群と言い換えてもいいし、作者の生来のクセや息遣いにものすごく近いところで歌を詠んでいることに起因する何かなのかもしれないし、誰かの影響を受けても変わらない軸を先天的に/後天的に持っているということなのかもしれない。

学習された結果のものや雰囲気、ドレスコードに沿ったものというよりも、(仮にそれが流行りと呼ばれるものと酷似しているとしても)カーテンを一枚取り除けたら絶対真似できない形と対面するだろう、と確信するものがある。真似した時点で違うものになっている曲線のようなものを持っている。

仮にその形が変わったとしても後世で「前期○○/後期○○」と表されるようなものかもしれない。スタイルとか文体が近いのかなとは思うが、その前段階を表す言葉が見つからない。

魂とか人格というところまで本人に近づいているものではないからやはり自律性という言葉がしっくりくるのだが、要するにそういうものを持っている歌があって、それが私が思う短歌の才能なのではないかと思っている。

重要なことなのでもう一度言うと、前提として個々人の短歌はオリジナルで尊重されるべきで、私はその「尊重されるべき」の裏付けのために神様を持ち出せるくらいにはそこにあるだけで尊いものだと思っている。あくまでもそのなかの一つの属性の話である。別に博愛主義者でもなんでもないが確信として。

勿論しがない一人の歌人がそう思っているだけなので才能とは無関係なのかもしれないし、やっぱり才能自体存在しないのかもしれないし、自律性があろうとなかろうと量を詠める人と詠めない人がいるから、こんな議論をすること自体無駄なのかもしれない。

でも一つの目標として、もしかしたら頭のどこかに眠っているかもしれない自律性を掘り起こしてみたいし、そういう歌人の歌を沢山追ってゆきたい。

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