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どうして短歌なのか、みたいな話 #2

前回の #1 の記事にて、「散文よりも定型にのっとった短歌のほうが現実を壊す力がある」という趣旨のことを書いた。折角の機会なのでこの話を掘り下げてみようと思う。

(前回)




定型と幻想

人をダンスに誘うような短歌が詠みたい。

これが「幻想系短歌」と勝手に呼んでいる類の短歌をつくる最大の理由だ。お手をどうぞ、と話しかけて、読んでいるうちに気が付いたら知らない場所にいざなわれているような短歌を詠めるようになりたい。

これだけの理由ではわざわざ短歌にする理由がないと思われるかもしれないが、実現するには短い定型が最適だったという話をしようと思う。


定型、というのはここでは短歌の五七五七七のリズム(狭い意味での韻律)や、31文字という短歌ならではの制約のことを指す。

現実を壊すというと大袈裟だし若干痛い感じがするが、別の言い方をするなら、散文で書くよりもこの制約のもとで書いたほうが夢や幻想に近くなる気がするのだ。(どちらにせよ胡散臭いかもしれない。仕様なので諦めてください。)

あくまで筆者の場合だが、普段新聞紙に書いてある文法の延長線では幻想的な作風を維持しにくい感じがする。

これは元々の作風の問題もある。私は大学の創作サークルに初めて載せたのは幻想小説や観念小説の類で、そのあとに短歌を季刊誌に寄稿し始めたという経緯を持っている。誰かに見せる表現という点では「幻想ありきの表現」を続けているのだ。そして、この幻想と短歌の相性が自分の中でとても良かったのだと思う。

自分へのお守りのように文章を書いていた私にとって、書いたときのことをすぐに思い出せることはとても重要だ。
私の創作の傾向はかなり自家発電方式であり、ドンピシャに好きな作品を見つけられないから自分で錬成するというスタイルなので、基本的に自作を作るときに大事にしているのは「今/過去/未来の自分を救えるか」である。

(もちろん自分向けの需要だけだとどうしても行き詰るし近くの人をもっと知りたいので、リクエスト短歌を始めてみたり、いちごつみにお誘いしたりしている。)

ともかく私が創作をするのは大体苦しい時で、それを楽にするには現状をすっと楽にしてくれるような作品を自分で作ることになる。この時に最も有効だったのが幻想であり、すなわち短歌だった。


水分スパンコール化計画

あくまでも現時点で思っていることだが、短歌は錠剤や、あるいは劇薬なのではないだろうか?

一粒、数秒噛みしめるだけで痛みが和らぐ常備薬で、幻想の世界に誘われたいとき、とにかく共感されたいとき、だいたい万病に効く。言い方が危ない気がしてきたのでこのあたりで留めておくが、錠剤というのはそういう意味だ。

一方、劇薬というのは、短歌の効能の中でも最初に話した「現実を壊す」といった意味合いに近い。

閉塞感のある日常で何をやってもうまくいかなくて、もう周りのなにもかもが壁だと思った時に、そこで僅かに見つけた罅に向かって投げ込むためのもの。少しの光明を足掛かりにこれが突破口になってくれたらいいなぁと思って詠んでいる類の歌が、私が勝手に幻想系と名付けている短歌だ。

秋の季刊誌に寄稿した連作『背表紙から月は咲く』から一首引用すると、

一世紀前の地球の水分はスパンコールだってことにしよう

錦木圭

といったものだ。

正直スパンコールだったら漁獲量とかどうなるんだろうと思うけれど、一世紀前は私たちが自分の経験の延長として捉えられるなかで最も遠い地点だと感じたのでこの歌を詠んだ。

なんとなく日常の中の規範を見つめすぎると、それ以外の世界についていつの間にか忘れてしまう。お伽話を信じなくなってしまう。
一旦地球の水分をスパンコールにすることで、地球規模までいかないにしても自分の立ち位置をフラットな状態のなかに置き直すことができるような気がしている。


ところで、私は今までにぶっ飛んだ数人の人々の発言のおかげではちゃめちゃに気が楽になったことが何度かある。
そのうち今でも覚えているのが、大学受験前に緊張しすぎて大変だった時期に先輩がしてくれた「当日は『もし起きられたら受験しに行こっかな~』くらいの気分で良いよ、実際サボったことあるし」という話だった。

完璧主義が音を立てて崩れ落ちたような気分だった。最高のコンディションで入試に行くために朝食と昼食の内容や電車の時間、服装すべて決めて……と考え続けていた私にとってその話は閉塞感を打破するのに十分だった。
結果的には本番にきちんと起きられたので入試に行った。けれどそれは固定観念に雁字搦めにされた状態で同じことをするよりずっと気が楽で自由だった。

私はそういう歌が詠みたいと常々思っている。


スパンコールの歌に話を戻すと、地球の水分がスパンコールだと思って生きていたほうが気が楽だと思ってこんな歌を詠んだのだ。
強めの幻想、それもはっきりと言い切ってしまえば案外あるかもしれないと思わせられる幻想を31文字に集約することで、詠み手の現実はちょっと気楽なものになる。

ちなみにタイトルの『背表紙から月は咲く』は、子供向けの蛇腹折りの本を逆側から開く時みたいに、本の背表紙から別の物語が当たり前に始まる世界になってほしかったので錬成した。月はいくらあってもいいよね。


月を量産するツール

その一方で、これを散文でやろうとすると収拾がつかなくなってしまう。

短歌なら一首の前後が似た状況で構成されていると把握できるから単に「そういう世界」で済む。しかし、散文だと主人公を出さないといけないし、結末を書かないといけない。主人公はおそらくその世界で何かの行動を起こして、結果として世界に残るかどうかの選択を強いられてしまう。

人がどんな選択を迫られ何をするかを問うのが散文のいいところであり、同時に私が好きな世界観を凝縮できない理由だ。

だがもし前述の連作を月が咲いている違和感から描写しなければいけないとすれば、「現実をちょっと呼吸しやすくする」という目的からするといささか遠回りという印象を受ける。
かといって世界を切り取っただけの詩というのもどこか違う気がする。
俳句のように描写を徹底すると何が言いたいのか分からなくなってしまう。

表現したいのは詩的飛躍や作品同士の飛躍を最大限活用する詩形であり、ショートフィルムの連発みたいなものだから、やはり短歌しかないか、ということになる。

そういうわけで、脈絡なく人を幻想の世界に誘えるツールが私にとって短歌なのだと思う。


信憑性の高い虚言

ただこの幻想系短歌、案外詠んでいる人が少ない。短歌界隈に触れる前はかなりメジャーだと思っていたのだが、どうやらそこまででもないらしい。
もしかしたら他人様に見せることが前提のコンテンツとしては一定のクオリティに持っていくことが難しいのかもしれない。

ということはスパンコールやら何やらも道楽だからできることなのかもしれない。

だがどうせ道楽なら極めてみたい気もしている。


筆者が短歌を公開する動機として「人をダンスに誘うような短歌が詠みたい」というものがあると最初に書いた。
ぼんやり読んでいるうちに、日常から緩やかに非現実(と思われそうな場所)に飛躍したいというのは短歌を始めたころからのひとつの目標である。

「こいつが言うなら案外本当かもしれないぞ」と一首でも、一瞬でも思ってもらえるなら大成功だ。
今後も拙いなりに手を差し伸べまくるので、いつか面白いやつだなと思って手を取ってもらえたら嬉しい。



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