言葉と想像力 ~5ちゃんなど…ネットの言葉との向き合い方~

「言葉は心を超えない」という歌詞があるように、誰かに自分の思いを伝えるのは本当に難しい。

そこで僕は自分が相手に対して何から何まで隈なく伝えられる、テレパシーがあればいいのにとよく考える。しかし、それを考えると同時に否定する。自分が普段は表では「優しい」とは言われるが、気が小さかったり、人には見せられない醜い部分を隠し持っているという自覚があるからだ。また、他人だって人にはなかなか見せられない、自分が醜いと思う部分はあるのだから、それを覗くとやはり自分もかなりショックを受けるだろう。誰にでも表と裏はあり、その裏の部分を見るのはとても危険な行為となりうる。

しかし今の時代におけるインターネットでは、心から思ってることをそのまま気軽に曝け出すことができてしまう。同時にテレパシーを使わずとも、簡単にそれを見ることができるようになってしまった。

特に5ちゃんねるのような匿名掲示板では「名無し」というハンドルネームがあり、顔を住所も出さずに芸能人だろうが一般人だろうが誰彼構わずその人に対する自分の偏ったイメージを思い切り書ける。そこから出る言葉はどれも剥き出しの言葉だ。その書き込みを見ることは、誰かは分からないけどやはり人の心の奥底を覗く行為であろう。しばしば書かれた本人がそれらの書き込みを見て傷つく。言葉もナイフやカッターのように便利なだけでなく、時には人を傷つけたり、場合によっては殺す道具となってしまう。

ネットでは、言葉を伝える側、受け取る側のどちらも現実以上に慎重になる必要がある。

伝える側が慎重になるべきなのは、言葉の持つ攻撃力、破壊力の大きさである。以前ブログでも書いたが、特に感情的な言葉や暴言は普通に話したり、愛情を伝えるよりもかなりの威力とスピードで相手に伝わってしまいやすい。また、言葉には言霊というものがあり、相手に言った言葉は時間が早くとも遅くとも自分にはね返ってくる。少なくとも僕自身がそうだ。たとえば、誰かに「死ね」と書いても、自分はすぐに死なない。しかし、誰かに「死ね」と書いたことは心の中で必ず残り続けるであろう。言った当初は平気だったとしても、いつか自分が人に「死ね」と言った人間だって自己嫌悪に陥り、苦しみ続けるんじゃないか。「死ね」と言うことは相手を傷つけるだけでなく、自分も傷つける行為であろう。それが言霊なんだと思う。
自分が苦しまないためにも、やはり言葉の扱い方には気をつけなければならない。

一方で受け取る側は、人には表と裏があり、様々な感情を持ち合わせていることを考える必要がある。ネットの書き込みはやはりその書いた人の一面しか見えづらい。そこに書かれた言葉を悪意だとみなしたら、その人の書いた全てが悪意のように見えてしまう。表情とか声のトーンのない言葉をそのまま受け取ると、自分の視野がとても狭くなってしまう。だが、それを書いた人にも自分のことが好ましいと思う部分、惹かれる部分があるんじゃないかと想像してみることが傷ついた自分を癒す手段になるのではないか。例えば自分も今年に入って成りすまし行為を散々受けてるが、「いい思い出だよ」とか口真似されたら、自分も「いい思い出だよ」と返し笑いとばした。そうしていいくうちに精神的なダメージは軽くなってきた。また、僕に成りすました人間も、現実世界では逆に自分にも同じような傷つく経験があった、自分の人生が上手くいかずに落ち込んでいるんじゃないかなと考えてみる。僕は学校で友達が1人もいない経験があったり、絶えず人間関係でトラブルを起こしているけど、そいつも同じような生活をしてるんじゃないかな。すると、そいつはそいつで大変なんだし、わざわざ僕が落ち込むことはないと思えてくる。

人が持つ感情には嬉しさがあれば同時に怒りもある、喜びもあれば同時に悲しみもある、愛もあれば同時に憎しみもある。それぐらい人は複雑な生き物で、不完全で未熟だ。時にそれを肯定してみるといいんじゃないか。表だけの言葉だけを読み取って受け取るのではなく、多面的に受け取ることが必要だ。ネットの偏った情報に対抗できるのは、自分たちの想像力である。

#エッセイ
#言葉

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