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自由に生きたい、と人は言うけれど


「自由に生きたい」ということを
今までたくさん読んで、観て、出会ってきた
フィクションの中の登場人物たちは言っていた

彼ら、彼女らの背中を追いかける


どう考えてもたくさんのものに拘束されていて
朝、出勤する反対方向の電車に急に飛び乗ったり
なんて到底できる気もしない僕たちは
「自由に働きたい」ということを
合言葉のように夜な夜な口ずさんでいる


自由ってなんだろう

会社に縛られたくない、依存したくない

"頑張ればできるけど、とても疲れること"
"頑張ってもできないこと"
"納得できないこと"
をできるだけしたくない

大切にしたいことを大切にしたい

自由に働きたい、そして自由に生きたい


そうやって働き方を、生き方を選んできた

いまは自由か?と聞かれたら
フリーランスになった今
前よりは幾分か自由だ、と答えられると思う


だけど、僕は本当に"自由"なのだろうか

"自由に働く"ということの定義は
色々あるのだろうけれど
ここではひとつ『自己裁量の割合』という
観点で考えてみると比較的実現する道筋が
見えやすいように思える

自分で決められることが多ければ多いほど
"自由に働いている"ということになる

ただこれは青天井の上昇パラメーターではなくて
自分自身の閾値のようなものだとも思う

全体の中での自己裁量の割合が
ここからここくらいまでの比率であったなら
自分的に納得できる、心地いい、というもの

高ければ高い方がいいというわけでもなく
低ければ到底、納得してなど働けるはずがない

そんな閾値の問題

自分自身が"自由に働いている"と判断できる
環境がどんなエコシステムなのか、という
自己理解と環境とのマッチングの問題だ


一方で、"自由に生きる"ってなんだろう

買いたいものを買うこと?
行きたいところに行くこと?
やりたいことをすること?

そういってしまえば簡単だけれど
これは反面、そんな単純な問いではない

買いたいものは、ほんとに欲しいもの?
行きたいところは、ほんとに行きたいところ?
やりたいことは、ほんとにやりたいこと?

胸を張ってそうだと、言えるだろうか


お金はあればあるほど良いという神話
最短距離で脳をゆさぶる方法を知っている広告
羨望と虚栄心と焦燥感をかきたてるSNS
実際にはありもしない架空の空間、"世間"

自分の望みが自分自身の原石なのか
それともどこかから拾ってきた合金なのか
そんな簡単なことまで
よくわからなくなってしまっている気がしてしまう


だれのために

なんのために

どうして

"自由に生きる"ことの定義も、そのゴールも
遠く蜃気楼のように霞んでいる

その向こう側に綺麗な水の湧いている
オアシスはあるのだろうか

喉はカラっカラに乾いている
これは死活問題だ


20世紀の政治哲学者で著書「正義論」で有名な
ジョン・ロールズによる思考実験に
『無知のヴェール』というものがある

これは
『自分がどんな境遇でどんな才能を持って
 生まれてくるか分からないとしたら
 どんな社会を設計すべきか』というもの

めちゃめちゃお金持ちに生まれるかもしれないし
すごく貧しい家庭に生まれるかもしれない

五体満足でアスリートのように強くしなやかな
肉体を持って生まれるかもしれないし
なにか障害を持って生まれるかもしれない

自分自身の利己心を超えて
普遍的な正義を実現するために
だれもが"無知のヴェール"で自分自身のことを
何ひとつ分からない状態だと仮定して
どのような合意形成が成し得るのか


これは一応、
自分が最も恵まれない境遇に生まれることを
想定して、その場合の生活が最も良いような
社会を選ぶという合理的な選択をする、という
マキシミン原理を提唱しているのだけれど

個人的にはとてもおもしろくて
秀逸な思考実験のひとつだと思う

『無知のヴェール』は
僕にどんな景色を見せてくれるのだろうか


「自由主義の父」とも呼ばれる
17世紀イギリスの哲学者ジョン・ロックは
経験論的立場からの認識論について
『タブラ・ラサ(白紙)』を唱えている

人間は生まれた時は真っ白な白紙のようなもので
色々な経験の中で世界の概念を書き込んでいく
簡単に言うとそんな人間観のことだ


僕たちは生まれたときは白紙で

そこから沢山の戯言と至言を書き込み
意味のあるものと意味のないものを落書き
破れてはセロハンテープでとめて
くしゃくしゃに丸めては丁寧に引き伸ばし

もはや原型がないほどに
過去と現在と、そして社会に姿形を規定されている


"自由"ってなんだろう

『無知のヴェール』をかぶったとき
『タブラ・ラサ(白紙)』に戻ったとき

僕はなにを望むのだろう

いまと同じものを望むのだろうか

いまの望みは
ほんとうに自由な僕の
自由な選択になっているのだろうか


ほんとうの自分の、ほんとうの望みが
わからなくなっていて
いつの間にか気付かないうちに重い鎧か何かを
着させられているような気分だ

関節は硬く、視界は狭くて
常に強制的に戦場にいさせられている

これを着ている限り、闘うしか選択肢がない

脱ぎたいけれど、脱ぎ方がわからない
脱げたのかも、脱げるのかもわからない

でも、脱がなくては
本当の意味では"自由"にはなれないのだろう


どうでもいい話だけれど

18世紀のフランスの哲学者で
自由と国家の在り方を思考しつづけ
社会契約説を唱えたジャン=ジャック・ルソーは
露出が趣味の変態紳士だったらしい
(なんの話?)


現代社会の根底に駆動している社会契約論と
一般意志という抽象的で理想論的かつ難解な
哲学を生み出した彼の性癖に
なにを思えばいいのか正直わからないけれど

「自らが自らの君主/統治者である」
という意味での"自由"ということなら

彼はどうやら"自由"だったようだ
(性犯罪を容認しているわけでは決してない)


『無知のヴェール』をかぶるのか
『タブラ・ラサ(白紙)』に戻るのか
鎧を、もしくは服を脱ぐのか


どちらにしても明確な答えというよりは
生き方のスタンスが大切なのかもしれない

選択に、望みに出会ったその都度問う姿勢、
常に問い続ける姿勢が問われている

それは本来的な自由か
本質的に自由な選択なのか
その自由は、自由なのか

正直めんどくさいけれど
そんな不器用で、一進一退五里霧中な方法でしか
本来的な自由は手にできないのだろう

目の前の欲望に従った方が簡単だし
社会の正解に盲従した方が気が楽かもしれない

だけど、僕は自由になりたい

本質的な自由がほしい

世間に、社会に規定なんかされない
自律的で美学的な自由が


だからこそ
僕は何度も、何度でも自由を問い続けたい
問い続けていきたい(服は着て)

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