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空を歩く



"なにかを信じている人"を
僕は美しいと思う

それはなにかを信じきれない
自分のルサンチマンをそこに見るからなのか

美のイデアをその向こう側に
感じているからなのか

そうだね、たぶんどっちもだ

自分を信じられたなら
それを人は、"自信"と呼び

他人を信じられたなら
それを人は、"信頼"と呼び

神さまを信じられたのなら
それを人は、"信仰"と呼ぶ

信じる、って
シンプルだけど難解だと思う

信じたい人が居て、信じるという行為があって
信じているという状態になる

でもこの連続して移行していく過程の
"信じる"と"信じている"には
なにか明確な違いがある様な気がしている

なにが違うのかな


前にnoteで
「信じる、許す、愛する、みたいなのは
 論理を超えた精神性の領域にあって
 そこに辿り着くには
 論理ではない別の"なにか"が必要なのかも」
みたいな事を書いた

理詰めで客観的に事実を並べるだけでは
どうやってもそこには辿り着けない

論理的に考えるだけでは
いつかは行き止まり、崖に行き着く
そこから先には道が繋がっていない

信じる、許す、愛する

どうしたらいいんだろう

盲目的にならずに、信じる為には
感情を劣化させずに、許す為には
見返りを求めずに、愛する為には

その崖を飛び越えるには
ぴょん、とジャンプをしないといけない

もしくは
パチン、と指を鳴らさないといけない

"考える"だけではなく
なにか別のアクションが必要なんだ、きっと

それは、何なのか



そんな事を考えていて
結局答えは見つからなかった

もやもや考えながら
頭の片隅に大切に取っておいた疑問


その疑問に進展があった

微々たるものかもしれないけれど
確かに1歩、2歩、進んだ気がした

1人の人間にとっては小さな一歩かもしれない
でも、人類にとっては偉大な飛躍...

でもないかもしれないけれど

とにかく、今日はそんな話



少し前に、東京のとある教会で
神さまを信じている男性と話をした

「君は神さまを信じているのかな?」

彼にそう尋ねられて
普段なら僕は適当に返す所だけれど
ちょっと真剣に話してみたくなった

彼がとても誠実そうに見えたからだった

僕は史実としての出来事と
その影響の価値や尊さを理解は出来ていても
信仰する神さまを見つけられてはいません、と
正直に話した

すると、彼は
批判や軽蔑を一切感じない
とても優しい澄んだ目をして

「それは、貧しいね」

と一言呟いた


盲目的にならずに、信じる
感情を劣化させずに、許す
見返りを求めずに、愛する

論理だけではそこに辿り着けない
哀れなホモサピエンスを
憐れむ様に、慈しむ様に、彼はそう呟いた

僕は、何も言えなかった


数日前に
他人も、自分自身も、世界も
全部ひっくるめて肯定して愛している友人と
ワインを飲みながら話していて

その美しい生き方を、話す言葉を
横顔を見ながら

ふと、直感的に、感じた事があった

そっか

この人は信じているんじゃない

"知っている"のか


「信じる」という言葉は
信じられていない人が使うのかも知れない

信じたいから、使う言葉なのかも知れない

あの人を信じる
あの人がそうで在る事を信じたい

自分を信じる
自分が出来るという事を信じたい

神さまを信じる
神さまの絶対性を信じたい


信じられない自分がそこにいて
でもその崖を飛び越えたいと願うからこそ
人は「信じる」と口にする

祈る様に

だけど
信じられている人は「知っている

あの人を信じている
いや、あの人がそうで在る事を知っている

自分を信じている
いや、自分が出来るという事を知っている

神さまを信じている
いや、神さまの絶対性を知っている


その強く、優しく、静寂な在り方を
なんて美しいんだ、と思う

そうだ

信じたい人が居て、信じるという行為があって
信じられた人は、その語彙の質感が変わる

信じている人は、知っている人なんだ


教会で話した彼は知っていた

僕が憧れる友人も知っていた

論理では超えられない崖を越える為に
ぴょん、とジャンプする事もせずに
パチン、と指を鳴らす事もせずに

彼も、友人も
ふわりと空を歩いていた

気持ち良さそうに、鼻唄でも唄いながら
ふわりと空を歩いて崖の向こうに
そして、その先へと歩いていく

彼にも、友人にも
まるで崖は存在していないかの様だった


掴めた様で、掴めない、この感覚

なんだろう

分かった様で、分からない
だけど、なんだか嫌な気分ではない

少し笑ってしまっている僕がいる

僕はなにかを信じた事はあるだろうか

僕はなにを知っているのだろうか

まだ、なにも知らない気もする
大切ななにかを、知っている気もする


どうしても超えられない崖を飛び越える為の
ジャンプの仕方を、指の鳴らし方を
僕は探していた

見つけられず、途方に暮れていた

もう一度、始めから考え直してみようかな

どうやらスタートが違ったのかも知れない
歩き方が違っていたのかも知れない

どうせこの先は長い道のり
トライアンドエラーだ

何が正しいのかは分からない

これも結局、間違っているのかも知れない

だけど、僕は忘れられない

教会で話した彼が、憧れる友人が
すごく気持ち良さそうに空を歩いている姿を

それを美しいと思ってしまった
その時の感情を


ジャンプしなくても良い
指を鳴らさなくても良い
必要なのは論理の飛躍ではなかった

僕は、彼らと一緒に空を歩いてみたい


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