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「優しさとは」という途方もなく答えのない問いの一仮説


他人に優しく在る」という
とてもシンプルなことさえ実現できれば
この世界で起きているほとんどの争いは
なくなるのかも知れない

でも、それはたぶん無理だろう

実際には、僕たちは
「他人に優しく在る」こと"だけ"出来ない

他人を蔑ろにすることも
他の何よりも自分の利益を優先することも
他人の大切なものを馬鹿にすることも
否定も批判も無視も仲間外れも

全部ぜーんぶ簡単に実現出来ていて
何なら得意満面、十八番とさえ言えるのに

「他人に優しく在る」ことだけが出来ない


それはなぜだろうか

そんな人たちを目にする度に思う
そんな自分に直面してしまう度に思う

優しさ」って
どうしてこんなにも在り難いのだろう

僕たちがそう在るためには
なにが必要なのだろうか

「優しさ」の正体とは

そんなことを考える


哲学/倫理学の中には
能力主義(meritocracy)の問題』
と呼ばれる問題提起がある

ひとつの問いから始まる問題提起だ

あなたの今の地位/名誉/評価etc.は
 どこからどこまでがあなたの実力ですか?

この問いに対して
自分の実力と判断する範囲が広ければ広い程
それは"能力主義的である"と言える


要するに
個人の成功/失敗の責任を
どこまで個人に委ねるのか
、という問いだ

能力主義を突き詰めれば
"成功したのは努力したから
失敗したのは努力不足だったから"
という、マッチョな社会が出来上がる

とは言え
マッチョだ何だと揶揄してはみたけれど
これはほとんどそのまま現代社会だと思う


成功者はその地位や報酬に値するし
失敗者は分相応の身分に甘んじるべし

でも、本当にそうだろうか

僕たちの成功や失敗は
どこまでが本来の実力の反映なのだろうか


成功と呼ばれる結果には
多くの場合、環境要因が深く関わっている

時世、タイミングも重要なファクターだ

個人のパーソナリティに関しては
もはや努力でも何でもなく偶然の産物だし

そもそも"努力"に関係する優性遺伝子の存在が
証明されてもいるらしい

こうやって考えると
どこまでが自分の実力で勝ち得たものなのか
確証を持つのが難しくなってくる


一応断っておくと
僕は個人の努力を否定したい訳ではない

それ自体はとても尊いことだし
自己意識と尊厳、自己肯定感に直結する
個人の幸福感の糧でもある

だけど一方で
運が良かっただけだ」と考えることは
傲慢に陥らないための処方箋でもあると思う


僕がこれまで成してきた選択は
選んできた、とも言えるし
選ばれてきた、とも言える

選ばざるをえなかった、とも言える

全ての選択が能動性に帰着するのではなく
受動性が常に内在しているのだと思う

そう考えれば
僕はどれだけ自分自身で選んできたのだろうか

全て自分自身の能動的な選択で
実力で勝ち得たとはとても思えない

ただの一つもない、とさえ思える


そうやって俯瞰して自分を見た時に
社会の見え方も変わってくる

全体の捉え方が変質してくる

社会、そして世界の総体として
"運が良かっただけ"と"運が悪かっただけ"が
混沌として混ざり合っていて

もしかするとそれがゼロサムゲーム
プラマイゼロに収束しているのかも知れない

これは少しばかり(いや、だいぶ?)
机上の空論で理想論的ではあるけれど

全部がトントンに収束していないにしても
どこかのツケを、どこかが負っているのだ


こうやって考えてみると
能力主義が見ないようにしている
世界の根底に存在している普遍的なもの

『Social good (社会善)』
『Social justice (社会正義)』
『Common good (共通善)』

などが段々と浮き彫りになってくる

ぼんやりとした概念に実感がこもってくる


この感覚こそが
「他人に優しく在る」ために
僕たちに必要なものなのかも知れないと思う


僕は能力主義を否定したこの感覚を
自分を広げる/自己を拡張する」感覚に
近いと思っている

一個人としての能力、努力、結果に
固執し、執着するのではなく

(自己肯定感は見失わない程度に)

環境や周りの人の支え、
偶然性を担保した社会/世界に
その要因を認めて、還元していく姿勢

そんな個々人の姿勢が
この無惨で悲惨で残念な世界を救う
一縷の望みとなるのかも知れないと思う


僕たちは自己の範囲が狭いからこそ
他人を傷付けても何とも思わずに

平気な顔をして
綺麗事を語りつつ他人を貶めるのは
自分しか見えていないからなのかも知れない


自分という感覚をどこまで広げられるのか

自分を、人間関係を、社会、そして世界を
どこまで総体として見ることが出来るのか

心理学者アドラーは
これを「共同体感覚」と呼んだけれど

それが「他人に優しく在る
ということなのかも知れないと

それこそが「優しさ」の
本質、そして正体の一側面なのかも知れないと

最近ふと、そんなことを思うようになった


随分と小難しい話に
なってしまった気がするけれど
まぁいいか

ここまで勢いで書いてしまったし
仕方ないからこのまま投稿するしかない


まぁ、要するに、だ
簡潔に、キャッチーにまとめてみるとすれば

僕たちが「他人に優しく在る」ためには
「優しさ」の正体とは

One for all , all for one.
 一人はみんなのために
 みんなは一人のために


ただ、それに尽きるってことだ


最初からそう言えって?

うん、そうだね、そうかもしれない

おつかれさまでした、解散


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