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【読書メモ】デリダについて



ジャック・デリダ
Jacques Derrida
(1930年7月15日 - 2004年10月9日)
フランスの哲学者で、一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている

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決定不可能性の思考
↪︎「不可能性の可能性」というアポリア(出口なし)について思考すること


『アポリアあるいは決定不可能性の試練がなければ、決定も責任=応答可能性もない』


→サルトルの自由な主体によるアンガジュマン(政治参加)とは異なったタイプの政治的責任

【異邦人】としての哲学、そして非哲学



現象学
エクリチュール(書くこと)の可能性をフッサールの現象学における地平の生成の問題として取り組む段階

散種論
ハイデガーの存在論や贈与論、ニーチェの永劫回帰などを手掛かりにして、生成と消滅における「現象しないもの」を思考することの不確定性について取り組む段階

亡霊論
ベンヤミンの幻影論、亡霊論(apparation)を手掛かりとする今日のマルクス主義や民主主義における法と正義への取り組みの段階



⭐︎現象学的な地平の開口は散種的コミュニケーションというデリダ独自のタームで考えられ、ついには存在・不在のいずれにも属さない亡霊への応答(不)可能性に倫理的政治責任を見ようとする




⚪︎ 文学的対象の理念性

「私は自分の辿ってきた道程を一つの迂路、つまり、哲学を経由して文学的エクリチュールであるような何かに再び到達するといった、そういう一つの迂路とみなしています」 ー 『他者の言語』

→"文学とは何か、という問い"

→文学と哲学の交差においてエクリチュールを問う


"文学についての哲学的問いは哲学的問いの文学性を顧慮することなく思考できない"という文学と理念の逆転によって「文学的対象の理念性」という問いを放棄する



⚪︎『差延
→フッサールの地平を動的に解釈する

・デリダの現象学とフッサール論
フッサールのいう超越論的な「高次の構造」(↔︎一般の構造「閉鎖、囲い込み」)を「開口」と呼ぶ


「超越論的還元とは問いかけ、... 開口そのものである」


対象化の根底にある開口部は限りない『差延』の運動の中にしか現れない


「差延」というシニフィアンにはシニフィエがない
→体系の内部にあるのではなく、むしろ意味の起源に関わっている



「理念への問い」は「言語の現象学」へ
→"発生の問題"は文字を通して伝達された理念がいかにして現在において甦るか、という問いへと集約される


フッサールがネガティブに受け取ったのとは対照的に"解読不可能性が与える解読可能性"という、文字を通しての理念の甦りが両儀的なことに注目する



「根源は一つの非根源、つまり痕跡によってはじめて構成されたのであって、かくして痕跡は根源の根源となる」


→フッサールのいう文字による伝達や解読不可能性は起源が常に遅れてくるものであることを告げている


エクリチュールの現象学は不可能である」→(フッサールの)現象学では差延を語れない


◎文学との交差

【デリダ三部作】
『声と現象』
↪︎フッサールを脱構築する

『エクリチュールと差異』
↪︎痕跡や非場を書き込もうとした文学テキストを追跡する

『グラマトロジー』
↪︎新しいエクリチュールの開始を告げる



文学という非哲学的なエクリチュールが哲学の核心部分に入り込んでいることを見出すことが、哲学の脱構築を進める


「書物の起源は作者という主体ではなく、応答することである」


ヨーロッパ哲学全体は音声中心主義(phonocentrisme)ロゴス中心主義(logocentrisme)に貫かれている

→文字は声を代理し、声は魂を代理する
エクリチュールは声に、声は魂へ還元される


もし、音声中心主義から逃れられたなら「書物」は終焉し、「グラマトロジー」(=エクリチュールの学)が始まる



「問題なのはこれまでに記述されなかったエクリチュールを書物という包装に委ねることではなく、すでに書物の行間に書かれていたことを読み取ることである
それゆえ我々は行(直線)なしで書き始めることによって、また過去のエクリチュールを空間の別の組織化にしたがって読み直す」


序論から結論へと至る直線的エクリチュールの入れ物として書物を考えることを止めること


この1次元的な書き込みとその読解に拘束されず、2次元的、3次元的、さらにはそれ以上の次元のエクリチュールを開こうとすること


※エクリチュールという言葉は非直線的な思考の始まりを告げているに過ぎず、差異そのものの概念化できない運動を示すものではない

※概念化できない運動については脱構築、差延、散種といった言葉(これらは伝統的な意味での概念ではない)を通して語られるようになるのを待たねばならない


⭐︎脱構築的戦略とは自身のアイデンティティーを形成しているためにあまりに自然に見え批判的に捉え直すことの困難なものが、実はいかに社会によって構築されたものかを認識すること、さらにその構築的運動の根底にさえ、差延的働きが作動していることを見て取ることである




◎『差延』について

記号の現前世は、既に過去を含み未来によって穿たれているが、そのような事態を生じさせるものこそが差延である

→フロイト、ニーチェ、ハイデガーは差延に気づき、それを語っていた


差延が差異的かつ遅延的であるという事は、力の差異的性格とエクリチュールによる力の迂回を示している。そしてこの「力とエクリチュール」の関係とは、一般的な言い方をすれば「権力と言葉」の関係の問題でもあり、デリダはこれに対し、エクリチュールはいかにして権力を脱構築しつつ、来るべき正義への線を引くことができるか、と問う



◎『脱構築』について

諸構造-ロゴス中心主義的構造、社会=制度的構造、そして何よりも哲学的構造-を分解し、沈殿物を浮き上がらせるために用いる

※脱構築と言う作業は、テクストの差異的な働きに依存している以上、一律にプログラム化できるものでもないし、主体の意思によって恣意的に行われるものでもない



◎『散種』について

70年代以降、脱構築にかえて使われるようになった言葉

シニフィアン(意味記号)をシニフィエ(意味内容)に繋ぎ止めようとする意味論への批判ともとれる

⭐︎二重性を、二重のまま思考する(パルマコン)


特権的解釈者はもはや存在せず、シニフィアンとシニフィエの正しい関係を探り当てることもできない
精神分析的な言い方をすれば、分析者の特権性は失われ、転移と逆転位の無限の連鎖の中に巻き込まれることになる



デリダは哲学素と非哲学素の絡み合いを、その非決定性の二重性において経験することを求める
それは哲学的言説を放棄することではない
逆に、哲学的言説を維持しながら、同時に非哲学的言説を書き込むことであり、それによって哲学と呼ばれるものを、不断に置き換えていくことに他ならない
散種はこうした終わりのない置換の肯定に他ならない
それが「エクリチュールの開始」であったし、また「哲学の脱構築」でもあった



◎70年代のデリダの問い

『固有性を与える囲いや枠をつくるものは何であるか、またそれを開き非固有化する可能性はどこにあるのか』

「尖筆が男であるとすれば、エクリチュールは女である」


○"哲学の余白"
哲学はいつもその余白とともにあり、いつもその余白によって鼓膜のように振動している

「鼓膜」が振動するなら、「限界」や「境界」は静止線ではなく、波打ち際のように不安定



「哲学の耳を脱臼させ、ロゴスの中にloxos(鼓膜の傾斜性)を作用させること」




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