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なにをするかで世界と繋がる


さいきん、納富信留さんの著書
『プラトン 理想国の現在』を読んでいて
現代人がプラトン哲学(主に主著『国家』)を
読む意義とは、みたいな問いに対して
あーでもない、こーでもない、と考えていた

基本的人権という概念、
法治国家というシステム、民主主義という思想、
そしてそれらをうまく乗りこなせない人類、
そんな時代に"理想"を語るプラトンが果たす
役割とは...


そんな、明確で簡潔な結論のないことと
今夜の献立はなににしよっかな、ということを
交代交代で考えながら電車に乗って帰宅する


答えがない問いに対して、頭の中のブドウ糖が
不足してぼんやりしてきていて、
お腹も減ってるし、すこし不機嫌になりつつ
空いた座席に腰をかけてゆらゆら揺られる

ぼんやりと不機嫌が合わさって
「もうなんでもいいから人類滅びて...」
と決して褒められない想念をぽつりと
音も出さずにつぶやいたとき

北参道で停車した電車に
杖をついた淑女が乗車してきた


いちばん端のドア側の席に座っていたので
座れるところを探す彼女に温めていた席を譲ると


「ありがとう、お兄さんいい人ね」と
なんとも、まあ可愛らしい笑顔で彼女は笑った


たぶん彼女は僕がつい5秒前にこぼした
愚鈍なひとり言を知ることはないだろう

少なくとも彼女の瞳には善い人と映ったらしい

そして、そのとき
うん、そうだな、なんて思った

すべてはそうなのかもしれない

僕と世界との繋がり、
僕とあなたとの繋がりについて
そのまま思考はめぐっていく
(帰り道、関係ないこと考えがち)



『"思っても言わなかったこと"は相手にとって
 "思っていなかったこと"と同じ』

これは僕自身が人間関係で
できるだけ気をつけたいと思っていることで

 いつもありがとう
 その服すてきだね
 新しい髪型似合ってるよ
 そういうところ好きだよ

そんな、思ってはいたけれど
タイミングが合わなかったり恥ずかしかったり
相手に伝えないままなくしてしまう言葉や思いを
ちゃんと伝えよう、という自分への戒めだ


仏教思想には唯識の思想というものがあって
この思想では、簡単に言ってみると
「自分が見ている世界は
 自分の認識だけで成り立っている」
という考え方でこの世界を捉える

だからこそ自分の認識さえコントロールできれば
この世界すらコントロールできて
そのいちばん向こう側には
仏教思想のゴールである"解脱"があるとされる

そんな思想なのだけれど
これは少し言い方を変えてみると
「自分が見ている世界は
 自分が認識できるものだけで成り立っている」
とも言えると思う


これは他人にとっても同じことで
他人が認識している世界は
他人が認識できるものだけで成り立っている

要するに
僕たちの悩みや葛藤、
なにかを考えた心の内面の機微も
他人の世界観(環世界)にとっては
なにも関係がなく全く影響もしえないということ


そんなことを考えていると
20世紀フランスの哲学者サルトルが言っていた
「存在とは、無である」という言葉が
突然、ふいに、腑に落ちた気がした


僕たちの存在(認識、観念、自分だけの環世界)は
この世界のどこにもなくて

ただ、行為として表出する実存(現実存在)だけが
この世界では意味をもつことになる

そっか

僕はなにを考えているか、ではなく
なにをするか、で世界と繋がっているんだ


小さな日常のできごとから
パタパタと哲学のドアが開いていく

20世紀ドイツの哲学者フロムの
主著「愛するということ」を読んだときに
越えられない、と思ってしまった壁があった

『完全なる利他的な愛は技術だ』と言われたとき

自分の利己心に完全に目をつぶって
ただひたすらに見返りを求めずに
利他的に誰かを愛するには
愛は技術だという概念以外にも
"信仰"のような、ある意味盲目的な力が
必要な気がしてしまった

フロムにはそれがあるのかもしれない
その実、彼はユダヤ教正統派の両親に育てられて
その著書には聖書からの引用が多くある

信じる
許す
愛する

それらの行為には理性だけでは到達し得ない
広い意味での宗教的なバックボーンが
必要なのかもしれない、と思っていた

信じ続けるためには
許し続けるためには
愛し続けるためには

なんでもいい、
一個人の理性で歩いていては到達できないような
ふわり、と飛ぶようなジャンプが
必要なのかもしれない、と


だけど、すこし違うのかもしれない


信じられていなくても
許せていなくても
愛せていなくても
どんな葛藤や悩みを抱えていたとしても
ただ、行為したことだけが世界との繋がりになる

ただ、行為したことだけが世界に認識される


だとすれば僕たちは
意固地に心身の清廉潔白さを
証明しなくてもいいのかもしれない

すこし肩の力を抜いて
信じたい哲学や美学に適った行為を
世界に向けて、目の前のあなたに向けて
ただ行為していくだけでいい

それがサルトルが言っていた
『存在とは、無である』ということで
『未来に向かって自らを投げ出す』ということ
なのかもしれない



そんなことを20時半、帰りの道すがら考えていた


なんだか、すこし安心した

僕たちは弱い人間だから
悩むし、迷うし、恐れるし、疑う

それでいいんだと、そう思えた気がした

世界は、その次を待っている

世界にとって価値があるのは
悩みと迷いと恐れと疑いの、その次

あのときは遠く感じたフロムの愛も
いつか手の届きそうな場所に
ぼんやりと輪郭が見えてきた気がする

信じて、許して、愛してみよう
行為だけが、僕と世界を繋げている

行為だけが、僕と大切な人たちを繋げていく

よかった、

僕はまだ僕自身をきらいにならないで
いられそうだ


よーし

そうして僕は
今晩の献立も決めないまま
最寄りのスーパーの階段を一段飛ばしで登った


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