見出し画像

点と点を繋ぐように


先日、お客様と施術中にお話をしていて
なるほど、と今まで見ていた景色が
ふと拓けた瞬間があった

「名探偵コナンってラブコメなんですよ」

主題歌のイントロを聴いただけで
どの映画版のバージョンなのか当てられるという
とんでもない特技(これはもはや才能)をお持ちの
コナン好きのお客様はそう言って笑っていた

毎年この時期になると映画が公開されて
もはや春の風物詩ともいえる『名探偵コナン』

この日本で詳しくはなくとも知らない人は
いないのではないか、というほどの
認知度を誇る国民的(?)アニメとも言えるだろう


かくいう僕も例に漏れず詳しくはないけれど
『名探偵コナン』については
少しだけ甘酸っぱい思い出があったりする


高校3年生の頃の話

同じクラスで気になっていた女の子が
好きだったアニメが『名探偵コナン』だった

今でこそアニメも観たりはするけれど
当時は本を読んでばっかりでアニメには疎くて

だけどその子と話したい一心で
毎週コナンくんを観てみては
誰が犯人だと思うだの、トリックがどうだのと
一生懸命共通の話題を探してみたりしていた

当時の僕は
なるほどな、この子はミステリー好きなのか
くらいしにか捉えていなかったけれど

そもそも彼女はコナンくんを
ミステリーとは捉えていなかったのかもしれない
と、ふと10年以上前の記憶が蘇る
(今となっては知る術もないけれど)

結局、その子とは
たまにお話しする以上の関係には発展しなかった

というか
少しは距離を縮めていた気になっていて
(もちろん労したのはコナンくん作戦だけではない)
満を持してバレンタインを迎えたのだけれど

その日の放課後に
下駄箱ですれ違いざまにチロルチョコを渡されて
あ、これ脈なしだ、と諦めたのだった、、

書いてたら思い出して
恥ずかしくなってきた


もしあのときコナンくんをミステリーではなく
ラブコメとして観ていたなら

犯人がだれとかどうでもいいから
新一と蘭の、平次と和葉のくっつきそうで
くっつかないなんとももどかしい関係性について
休み時間に話せていたのなら

...

うん、この話はもうやめようはずかしいなもう


とにかくコナンくんがラブコメであると知って
その物語の見え方が変わった気がした

それぞれの登場人物の関係性
複雑に絡まり合った相関図

主題とは関係ないところに本質(?)が宿っていて
マクロから見ていた景色は
ミクロからの視点を得て全く違う様相を呈した

そうか
彼らは誰が犯人だとか
真実がどこにあるだとかどうでもよかったんだ
(どうでもよくはないかもしれないけど)

誰と誰がいつ付き合って
誰が誰にいつ気持ちを伝えるかが大事だったんだ
(という楽しみ方、見方もできるというはなし)

本質的でもなく興味もない話で
にわかが気を引こうとしてごめんTさん(仮)


それぞれの相関図が分かってくれば
それぞれの関係の網の目が見えてくれば
ミクロで働く力学が透けて見えてくる

そういえば最近、中国哲学を勉強していて
同じような感覚を感じていた

中国哲学といえば
孔子を始めとした(老子に始まるという説もある)
孟子、荀子、韓非子などの諸子百家といわれる
思想家一群をその起源とする

なんとなくの系譜とそれぞれの哲学、
孔子の儒教、老荘思想と道教、
孟子の性善説、荀子の性悪説、韓非子の法家思想
は知識としては理解していたつもりだったけれど

詳しい連関と系譜、批判と立脚点を知れば知るほど
それぞれの相関図と哲学、主張が見えてきて

諸子百家という思想家一群のマクロな視点から
系譜と相関図というミクロな力学が透けて見えて
より彼らの魅力と思想の温度感のようなものに
深く立ち入ることができはじめた気が
最近していてすごくたのしい


それは、さながら知識の点と点を繋げて
ひとつの大きな星座をつくるかのような感覚がある

今まで見えなかった景色が見えてくる
そうすると相対的に現在地もわかってくる

そうしてその景色の美しさに魅了され
より深く、より静かにまた目を凝らす


おもしろいのはそれだけではない

ミクロ(微視)とマクロ(巨視)では
働いている力学が全く違っていたりもする

それは経済学でもそう
ミクロとマクロの中間の淡いを正確に
見極めるのがビジネスセンスとも言えると思うし

ミクロの量子力学とマクロの相対性理論では
世界線が違うほどに全く違うルールが根底にある

コナンくんをマクロ(巨視)的に観れば
"名探偵"という字義通りのミステリーだけど
ミクロ(微視)的に相関関係にフォーカスすれば
あのアニメはラブコメだった


そうやってミクロとマクロを行ったり来たり
レンズの倍率を自制的にコントロールすることは
「人文学的センス」とも言えるのかもしれない


それは視座や思考のレイヤーの切り替えで
いわゆるメタ的な視点、メタ認知というやつだ

わかっていながらにして
これがまた難しい

僕は哲学が好きで、形而上学的な思考は
どちらかというと得意な方ではあると思うけれど
形而下学的、あるいは実存的な、
要するに生活に即したリアルな人間関係については
正直あまり得意な方ではない
(かなしい)

だいたいどんな性格診断をしても
『団体行動が得意ではありませんね』と言われる
(かなしい)


でもだからといって
形而上学的(マクロ/巨視的)な世界観だけでは
やっていけないのも確かだろう

僕たちは形而下学的で実存的(ミクロ/微視的)な
いまいるここで生活をしている

いまいるここで、誰もが誰かと生きている


ルネサンス期のイタリアの画家ラファエロの
有名な絵画『アテナイの学堂』では
その構図の中心部分でプラトンとアリストテレスが
それぞれの哲学に沿った形で
プラトンは上を指差し(形而上学)
アリストテレスは下を指差している(形而下学)

どちらが正しいのか、という話ではない

大切なのはその絵画を見ている僕たちの視点
形而上学と形而下学を俯瞰するメタ的な視点
なのだろう


ミステリーの中に駆動しているのはラブコメで
その境界の淡いによって物語は進んでいく

全く違う相対性理論と量子力学を同時に記述する
統一理論を今でも世界は探し続けている

僕が好きなプラトン哲学のイデア論のような
理想論的でロマンチックな哲学は
現実に目の前にする1人の大切な人に対して
ほとんどなんの効力も持たない


見えている世界は
ミクロとマクロでは全く違う

その境界線の淡いと
視点の深度の高低差で目眩がするけれど
それでも目を凝らす

点と点を繋いでいく
そうして星座をつくる

また、点にもどる
繰り返す、何度も、何度でも

その向こうにもっと美しい景色が
拓けていくことを信じて


そういえば
新一と蘭は最近、付き合ったらしい

そもそも付き合ってなかったの?

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?