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孤独に愛された人は


物心ついてから今に至るまで
ひとりが好きだなあ、と思ってきた

ちょっと頑張ってみた時期もあったけれど
なんだかんだでひとりが落ち着く

家に帰ってひとりになって
ほっとひと息、ため息を吐いて
安心してしまっている自分への小さな憂鬱と

友人と目黒川沿いの遊歩道で過ごした時間に
話し足りなさを感じる対照的な感傷に
小さな違和感を感じている今日この頃の話


昔から集団行動が苦手で
いつどの集団に属していても
どこかでふわふわとひとり浮いていた気がする

それは青春時代を剣道に捧げて
自己との対話と鍛錬の追求という武の道が
骨身に染みてしまっているからなのか

それとも遺伝子に刻まれた
協調性と共感能力の欠如という
逃れ難いひとりぼっちの習性なのか


もしくは極端に性善説に傾倒した理想主義的な
愚かな性分のせいなのかもしれない

なんか、他人のことはよく分からないし
どうせ、自分のことは分かってもらえないし

平気な顔をして他人を殴り続ける
この社会は、人間は、気味が悪い

ガッカリするのも嫌だし
ガッカリされるのはもっと嫌だから
極力、他人と関わらないで生きていこう
そんな事をどこかで心に決めてたりして

ひとりで波風立てずに
静寂に生きていくつもりでいた

そんなこんなで
なんとか生きてきた28年目になって
ふと、周りを見渡してみると

一対一で築いていく人間関係に心地良さを感じ
当初の想定とはだいぶ異なる形で
大切な人たちが増えてしまっている

今だにひとりの居心地の良さを抱きながら
他方では
人肌の温度に愛おしさを感じてしまっている

いったいなんだろう
この矛盾は

この途方もなく絡まった結び目の一端は
どこにあるのだろうか


歴年の哲学者を悩ませてきた
いわゆる「鶏が先か、卵が先か」という
因果性についてのジレンマ問題

言い換えれば
「XがY無しに生じ得ず
 YがX無しに生じ得ない場合
 最初に生じたのはどちらだろうか?」


ひとりを好むようになるのは

孤独を愛したからなのか
それとも、孤独に愛されたからなのか


そんな意味のない形而上学がふわふわ巡る

もし後者だったとしたら
孤独に愛された人は
孤独を愛し返すほかなかったのだろうか

その愛はとても苦しくて悲しくて
キラリと鈍く光る切先は
暗闇に目を凝らす自分の喉元を突いている

そのまま前に倒れ込めば、ぐさり

切腹に類する形で武士が散り花を咲かせていた
一種の自害の作法に図らずもぴたりと一致する

愛、かぁ

また深淵な問いに行き着いてしまった

その愛し方を間違ったら
人はどこまで落ちていくのだろうか


いま僕がいるここが
落ちた果ての地獄なのだとしたら納得がいく

あの人もあの人もあの人もあの人もあの人も
そして僕自身も

地獄に住む餓鬼なのだとしたら諦めがつく


「鶏が先か、卵が先か」という問いに
本質的には意味はないのかもしれない

孤独を愛したのが先か
それとも孤独に愛されたのが先か
そんな問いにもたぶん意味はない


僕が抱える矛盾の結び目に一端の解などない

ただ、あるのは
いま目に映る世界が地獄と相似している
拭いきれない愚かな感覚と

その地獄に、はらりと一本
空から垂らされている蜘蛛の糸


人は苦手だ

だけど、どうやら人が好きらしい

この矛盾した逆説をしかと握りしめて
僕は無様にも不向きな人付き合いを続ける

せめぎ合う嫌悪感と愛情を
どちらも同じくらいに大切にしながら

そんな自分がなんだか嫌いではない
今ではそんな風に思っていたりもする


陰陽がせめぎ合って
調和を目指す僕の環世界で

疲れて、嫌になって、ため息を吐いて
笑って、愛して、ため息を吐いて

いつかそのため息が
蜘蛛の糸を溶かしてしまう日が来るまで
この糸を少しずつ手繰り寄せる

孤独を愛しながら、孤独に愛されながら

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