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【読書メモ】「おのずから」と「みずから」 ―日本思想の基層




人生のさまざまな出来事は、如意の「みずから」と不如意の「おのずから」との、両方からのせめぎ合いの「あわい」で出来ている

→「あわい」=「あいだ」を動的に捉える概念
二者の相互に行き交う相克、共和、共働という動的な関わり




自(ずか)ら
「おのずから」成ったことと、「みずから」為したこととが別事ではないという理解

→「みずから」の営みを超えて働く働きへの、ある感受性の表明


"包容的、寛容的でゆたかな情感をもった独自の思想文化を育ててきた"と評される反面、"自立的、合理的な思考を欠く不徹底で曖昧な思想文化である"とも批評され得る


「自然法爾(ほうに)」あるいは「おのずから」を理想に、それへの「融合相即」を自己否定的に求める(西洋の観念形態とは明らかに異なる)という基本発想




○親鸞
自然法爾とは「日本精神的に現実即絶対」または「煩悩即菩提」

※こちら側の「みずから」の計らいは決して阿弥陀の「おのずから」の働きと重なるものとしては受け止められていない
↔︎自然主義文学

→「おのずから」が絶対他の力、はたらきとしての「おのずから」

事に当たって己を尽くすということが含まれていなければならない。そこには無限の努力が含まれていなければならない。唯なるがままということではない。しかし自己の努力そのものが自己のものではないと知ることである。自ら然らしめるものがあるということである。
西田幾多郎「日本文化の問題」


「如来等同」いわゆる「現実即絶対」は、そうした異様な論理としての「信」を媒介としているのであり、それゆえあくまで如来に「等同」ということであって「イコール」ということではない。(「不一」)

→その「あわい」はごく僅かのようでありつつ且つ無限のようでもある(「我」と「真如」との弛緩した一元論的本覚(ほんがく)思想の否定)



○大燈国師
億劫相別れて須臾(しゅゆ)も離れず、
尽日相対して刹那も対せず

永遠といっていいほど別れていながらほんの僅かな間も離れていない。しかも一日中向かい合っていながら一刹那も向かい合っていない。


「おのずから」は外から自己を動かすのでなく内から動かすのでもなく自己を包むもの




自己と自然の相即

本来、対立すべきもの(自己と物、現実と絶対、さらには此岸と彼岸、内在と超越、等)を『即』『不ニ』『一如』という形で結びつけて捉えようとする、基本的な考え方への問い


○九鬼周造
偶然性とは、一者と他者の統合されることのない分裂としての二元性のことである

且つそれをいかに同一性としての自然性、必然性に結びつけるか


「あはい」とは「合ふ」の連用形「合ひ」の「合ひ合ひ」が約(つづ)まったものであり、二者の相互に行き交う動的な距離、関わりを表現する言葉である

→配色や釣り合い、色合いなどにおいて、互いを「合わせる」ことによって、それぞれがそれぞれとして浮かび上がってくるように、両者を相関において問い直していくということ




無常感

「いかにもののあはれもなからむ。世はさだめなきこそ、いみじけれ」
世の中は無情であるからこそ、「あはれ」(感動)も「いみじさ」(興趣)である

→「あはれ」「幽玄」「わび」「さび」等

日本人の無常感における、否定と肯定のあり方への問い

この世のあり方としての無常は、天然、自然の「おのずから」の働きとしての無常



無常をかこつ「みずから」がそこに同時に「おのずから」の働きを見出したときに、それをそれでよしとする肯定的な感慨、興趣を味わうことができる
新羅万象、草木国土、ことごとく皆「おのずから」であるごとく、我々自身の「みずから」もまた本来「おのずから」のリズムを刻んでいるはずだからである


→自然や外界を対象化する主体概念としての西洋近代のそれとは、かなり異なるところから語られている
まさに「みずから」と「おのずから」との「あわい」での発想である


→「みずから」の相対、有限なることの認識が不可欠の前提
何らかの自己否定、自己限定を介する以外、「おのずから」は感知し得ない


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