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ハーゲンダッツを食べきれないくらいの憂鬱


少し前に友達と中目黒で飲んで
酔い覚ましに夜の街を散歩していたときに

その友達から
"本の中に答えを探しているような人"
と言われた

うん確かに、言い得て妙だな
と我がことながら思った

その友達(正確にはその友達の友達)は僕に
「本を読むのをやめれば?」とも言っていた


そうだね

そうできるなら、そうしたい


プラトンに言わせればそれは
『パルマコン』的なものなのかもしれない

治療薬でありながら毒薬でもあり
毒薬でありながら治療薬でもある


答えがあるから読んでいた

では、答えなんてないのだとしたら?

思考にただ溺れていくだけなのだろうか

今日はそんな、ここ最近の考え事の話


「西洋哲学の歴史はプラトン哲学への
 膨大な注釈の歴史である」なんて
大それたことを言った哲学者がいる

だけど
これはあながち誇大妄想というわけでもない

大事なことは2300年くらい前に
だいたいプラトンが言っていた

普遍的な真/善/美について
国家(ポリス)の在り方や
教育の在るべき姿について


すごいなあ、プラトンは

そういう意味では彼は
"最初の哲学者"と言ってもいいのかもしれない

そんなプラトンは言っていた
普遍的な正しさは存在する』と


近代哲学の祖であり
後世の哲学者たちからは
その、西洋哲学2000年を総括するかのような
壮大かつ至高の哲学体系をもってして
"最後の哲学者"と呼ばれるヘーゲルは

Aと非Aの二項対立を超えてA'に至るという
弁証法的な世界観で絶対知の存在を示した

ハンバーグ(A)が食べたい
サンドイッチ(非A)が食べたい
ならば、ハンバーガー(A')を食べればいい

ハンバーガー(B)が食べたい
ポテト(非B)が食べたい
ならば、ハンバーガーセット(B')を食べればいい...

そうやって
弁証法によってアウフヘーベンしていけば
いずれ"至高のメニュー"に辿り着く

そう、それが"絶対知"

つまり、ヘーゲルはこう言ったとも言える
最終的な到達点は存在する


正解はある、に始まり
ゴールはある、に終わる

語弊を恐れずにあえて言えば
それが西洋哲学の歴史とも言える


僕はそれを信じていた

今もそう、きっと信じている


ヘーゲルが"最後の哲学者"と呼ばれるのには
一応の訳がある

その後に出てくる哲学者たちは
みんな、既存の概念の破壊者とも言えるからだ

それはニーチェにしても、デリダにしても


僕には近代以降の哲学史を振り返ると
人類が困ってしまっているように感じる


信じるものがなくなってしまった

目指すべき目的もなくなってしまった

僕たちはどうすればいい?

彼らの哲学は存在-神-目的論と呼ばれる
近代以前の哲学思想に対するアンチテーゼと
その思考の枠組み自体の脱構築

彼らはずいぶんと難解な言い回しを用いて
しかし力強く僕たちに語りかける

信じるものがなくなった?
目指すべき目的もなくなった?
それがどうした

それでも尚、全き肯定をするんだ

この世界に、社会に、そして人間に


絶対的な主体みたいなものは存在せずに
相対的な関係の網の目があるのみ

普遍的に共有するものなどは持ちえずに
ただその都度、正解(にもっとも近いもの)を
創造しつづける決定不可能性があるのみ

どうやらこの世界は
彼らに言わせればそうなっているらしい

そして僕は、残念ながら
この世界観の認識が腑に落ちてしまっている


"決定不可能性という経験の中での決定"
それにこそ価値があるとデリダは僕に言う

ははは

これまで繰り返してきたことを
これからも繰り返していくのか

これまでよりも残酷な世界観で

信じられるものもなしに

それでも、生きていくしかないのか


もういっそのこと
正解もない、ゴールもない世界で
泳いで溺れて、沈んでしまおうか

全身にうまく力が入らない
思考がまわらない、つかれてるな


深夜0時、僕は本を閉じて
冷蔵庫に隠されたハーゲンダッツを
静かな憂鬱と共に一口だけ食べて、残した

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