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ゆらぐ


雨の音が心地良かったり
川の流れに耳を澄ませて癒されたり
樹々のざわめきに心が落ち着いたりするのは

『1/fゆらぎ』という
僕たちの生体バイオリズムに適合した
ちょうどよい"規則的に不規則"な音に
脳が親和性を持っているかららしい


規則的に不規則、考えてみれば変な言葉だ

極悪な天使とか、最善の妥協点とか
神様みたいな良い子(=人間失格)とか
その内側に自己矛盾を孕んでいるような
そんな、心がざわざわするような言葉


だけど、どうやらこの世界は
そんな風に出来ているらしい

そんなことを最近考える


時代や環境、人間の多様性に関わらず
世界のすべての根っこの部分には
共通の絶対普遍の真実みたいなものがあると
ある意味、盲目的に信じて

神さまとかはどうしても信じられないし
それだったらプラトンのイデア論みたいに
人格神とはまた別の普遍的な真/善/美を求めて

結局は探しているものは
神さま(という概念)の別の呼び方ともいえる
超越論的な形而上学に救いを求めていた


母親のおっぱいの代わりに
おしゃぶりを手放せない子供みたいだ

それは生きるために必要なのではなく
泣かないために必要なもの



だけどそんなに世界はシンプルではなくて
善/悪、内側/外側、自己/他者、利他/利己、
記憶/想起、真実/嘘のように
二項対立で理路整然と説明できはしない
あやふやなボーダーラインが実像だとも思う

絶対だ、なんて言えることってなくて
(絶対なんて絶対ない、も自己矛盾だね)

目の前に広がる世界も
なんとか無理やり維持されている社会も
隣に座っているあなたも

絶対的な実存(現実存在)ではなくて
常に流転していく"ゆらぎ"とも言えるかもしれない

ゆらゆら、揺れて
ふらふら、立ち消える


僕は、この"ゆらぎ"が嫌いだった

過去形にするのは少し違うかもしれないね
今もそう、嫌いだ

変化はストレスだし、悲しいけれど
全ての出来ごとに個別対応していくほど
人間関係に熱意も執着も体力もない

絶対普遍の真実がほしい

それだけあれば生きていけるような
その輝きが全ての存在に根拠を与えるような


ここ最近、愛するプラトンに対する信頼に
盲目的になりきれなくなったときに

ポスト構造主義、脱構築を語る
フランスの哲学者デリダの思想と出会い
その"ゆらぎ"こそが世界の在り方で
そこにこそ人生の意味と価値があることを知り

大好きな恩師に言われた
君の人生には、ノイズが必要だよ
という言葉が何度もなんどもリフレインしている


"ゆらぎ"、そして"ノイズ"
僕はこれらを愛せるのだろうか

愛した先で、生きていけるのだろうか

その先では
どんな景色が僕を待っているのだろうか

嫌いだけど、好き
吐き気がするけど、愛している
地獄みたいな、楽園

これらの自己矛盾でさえ
曖昧なボーダーラインを行ったり来たりする
実態のない"ゆらぎ"なのだとしたら

生きていくって難しいなぁ、と思う

"生きる"と"生きていく"って同じようでいて
語彙の質感がずいぶん違うようにも思える

息をすれば、生きる
だけど、息をするだけでは生きていけない


とりあえずもう少しデリダと話してみたい
その上でプラトンともう一度出会い直したい

ゆらいでいる
これを愛せというのか


この世界の"ゆらぎ"を愛せたとき
僕の実存はどう在るのだろう

想像してみる

どっしりとこの世界に根を下ろしているのか

それとも相も変わらず
ゆらゆら、ゆらいでいるのか

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