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ピッチャーであり、同時にバッターであるような矛盾


さいきん建築に興味がわいてきて
建築史について勉強してみているときに
モダニズム建築が抱える哲学的な問いに出会った

建築は"自律的"であるべきなのか

形而上学的な領域で
解像度荒く、ぼんやり薄目で概念を眺めると
どうやら建築は哲学的で、哲学は建築的らしい

ここでいう"自律的"というのは
18世紀ドイツの哲学者カントの哲学に
由来していて、とても小難しくて抽象的なので
ふにゃふにゃにほどいて溶かして言い換えると
"0→1"をしているか、ということ


別々のコミュニティで出会った
別々の友人(哲学くんと建築さん)が
実は知り合いでした、もっと言うと親戚でした、
みたいたことになってきて

おもしろいなあ、と思った

そうして
自律と他律について、ぼんやり考えてみる


そういえば、少し前に国立西洋美術館に
キュビズム展を観にいってきたときにも

ピカソやブラックに代表されるキュビズムの
芸術家たちが掲げた、時代に対する
似たような問いに出会っていたことを思い出す

他律的(自律の反対)なアートの表現は
 どこまで広げられるのか

他律的ということは
"1→10..."もしくは"1→A"という
模倣、もしくは再解釈をしているということ

現実に、目の前にモデルがいて
それをいかに正確に絵画として
模写することができるのか、という価値観から

それって写真でいいのでは、となった時代に
アートの表現の可能性を広げていった人たちが
キュビズムという潮流をつくっていった


目に見えているものをただ正確に表現するだけが
アートではない、と彼らは言ったけれど

(自律を突き詰めるとポロックのアートみたいに
キャンバスに絵の具をぶちまいたもの、
要するにアート自体がそれ固有の意味や
情報を内包している、ということになる)

キュビズムのおもしろいところは
自律に振り切ることはなく
あくまで他律の限界を模索していったところに
あるのかもしれない、と個人的には思う

彼らの作品群には
どんなにわけのわからない(ごめんなさい)作品も
決して抽象画ではなく、モデルがあることが多い

彼らはどこまでも、他律の価値を信じていた


このnoteのきっかけにもなった
自律的な建築を模索したモダニズム建築も
実はポスト・モダニズムという潮流によって
その限界を批判されている

自律的で在ることには
どこかに限界があるのだろうか


だけど
カントの哲学は僕たちにこう語りかける

『常に、自律的で在りなさい』

"〜だから、〜する"
(ex.大切な人だから、助ける)ではなく
"〜する!"
(ex.助ける!)で在りなさい、と


自律と他律

哲学は、建築は、アートは
これからどこに向かっていくのだろう

そして、僕たちはどこに


どうやら人は自律と他律のはざまで
ゆらゆら揺れ動きながら、迷子になりながら
自分たちの在り方を探し続けているみたいだ

ここ数年の時代の雰囲気は
"0→1"を重視してもてはやす傾向にある気がする

 自律(自立)しよう!

 企業に、社会に依存するな!

 アントレプレナー(起業家)万歳!

 実力で、能力で、世界に自分だけの価値を!

そんなマッチョなシュプレヒコールが
どこにいてもどこからともなく聴こえてくる


自身もフリーランスで仕事をしているし
そんな能力主義的資本主義の恩恵を
少なからず受けているから
それ自体を否定する気はあまりないけれど

どうやら自律だけでは上手くいかないらしい
ということは歴史が物語っているようにも感じる

カントは精錬された純粋無垢な行動指針こそが
人の善い生き方、哲学であると言ったけれど
ほんとうにそうなのだろうか

もっとマーブルで、もっとアンビバレンスで
ゆらゆらと境界線が曖昧な
複雑で煩雑で、どっちつかずな
実体なき実体が人なのかもしれない

深いところで繋がっているとしても
別々の領域のもの(哲学/建築/アート/社会)を
単純なアナロジーで語るのは
個人的にはあまりよくはないと思うけれど

自律と他律の揺れ動く"ここ"こそが
哲学と建築とアートと社会と、
そして不安定な僕たちの在り方なのだろう


そうなのだとすれば

自律的であり、同時に他律的でもある

そんな
ピッチャーであり、
(その瞬間、という時間的な意味で)
同時にバッターでもある
みたいな理論上ありえない矛盾のほうが
少し笑えて、少しだけ肩の力が抜ける気がする


少し話は寄り道するけれど
古代ローマ五賢帝の一人、哲人皇帝である
マルクス・アウレリウスは著書の"自省録"で

『(誰かに)立たされているのではなく
 (自ら)立っているのでなければならない』
とストア哲学者らしい言葉を残している

僕はそんな彼の力強い静謐な言葉と哲学が
好きだったけれど、これも同じように

自立的であり、同時に他立的である

そんな
他人の優しさに支えられて生きているという
自覚を大切にした生き方が、いまの等身大で
なんとなく心地良い気が最近してもいる


そんなことを
仕事の合間にパン屋でひと息ついて
クロックムッシュをほおばりながら、ふと思った


考えてみると
答えのない問いをぐるぐる巡っていって
螺旋階段を登っていくような
そんな営みに愛おしさを感じていたりもする

そうやって僕たちは
自律的で在りたいと望みながらも
他律的な価値を大切にしたいと願う

この望みは、願いは

、、、自律てき?


うん、今日はもう考えるのはやめよう


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