Kei N.

都内在住29歳。日々の煩わしさと愛おしさについて。

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    本を読みながらまとめた私的なメモです。気になるトピックがもしあれば参考までに。

  • essay『人は苦手、だけど人が好き』

    静かな憂鬱とプラトニックな希望を行ったり来たりする日々の、世界滅びないかなぁと思った昨日と誰かのふとした言葉に救われてしまった今日の話。煩わしくて愛おしい、人と人との分かり合えなさについて。

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    essay『人は苦手、だけど人が好き』過去投稿の中で人気の記事をまとめました。

最近の記事

【読書メモ】釈迦について

釈迦(しゃか、旧字体:釋迦、サンスクリット: शाक्यमुनि、Śākyamuni) 北インドの人物で、仏教の開祖。 存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀、紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説があり正確な生没年は分かっていない。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ○時代背景 バラモン教の祭式万能主義への批判 →家庭祭や天啓祭で人が救われるのではなく、智恵によってブラフマン(宇宙的原理)やアートマン(個体的原理)を知ることが重要であ

    • 自由に生きたい、と人は言うけれど

      「自由に生きたい」ということを 今までたくさん読んで、観て、出会ってきた フィクションの中の登場人物たちは言っていた 彼ら、彼女らの背中を追いかける どう考えてもたくさんのものに拘束されていて 朝、出勤する反対方向の電車に急に飛び乗ったり なんて到底できる気もしない僕たちは 「自由に働きたい」ということを 合言葉のように夜な夜な口ずさんでいる 自由ってなんだろう 会社に縛られたくない、依存したくない "頑張ればできるけど、とても疲れること" "頑張ってもできないこと

      • 【読書メモ】「おのずから」と「みずから」 ―日本思想の基層 (ちくま学芸文庫 タ-45-2) / 竹内整一

        人生のさまざまな出来事は、如意の「みずから」と不如意の「おのずから」との、両方からのせめぎ合いの「あわい」で出来ている →「あわい」=「あいだ」を動的に捉える概念 二者の相互に行き交う相克、共和、共働という動的な関わり 『自(ずか)ら』 「おのずから」成ったことと、「みずから」為したこととが別事ではないという理解 →「みずから」の営みを超えて働く働きへの、ある感受性の表明 "包容的、寛容的でゆたかな情感をもった独自の思想文化を育ててきた"と評される反面、"自立的、合理

        • 【読書メモ】デリダについて

          ジャック・デリダ Jacques Derrida (1930年7月15日 - 2004年10月9日) フランスの哲学者で、一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ◎決定不可能性の思考 ↪︎「不可能性の可能性」というアポリア(出口なし)について思考すること 『アポリアあるいは決定不可能性の試練がなければ、決定も責任=応答可能性もない』 →サルトルの自由な主体によるアンガジュマン(政治参加)とは異

        【読書メモ】釈迦について

        • 自由に生きたい、と人は言うけれど

        • 【読書メモ】「おのずから」と「みずから」 ―日本思想の基層 (ちくま学芸文庫 タ-45-2) / 竹内整一

        • 【読書メモ】デリダについて

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          【読書メモ】アルチュセールについて

          ルイ・ピエール・アルチュセール Louis Pierre Althusser (1918年10月16日 - 1990年10月22日) フランスの哲学者で マルクス主義哲学に関する研究において著名 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- ◎マルクス哲学(認識論)について 資本論の中で働いている潜在的な哲学に 顕在的な形を与えること、が アルチュセールの哲学的課題 →マルクス思想を"哲学"と"科学哲学"として  二重に読む 初期マルクスはヒューマニズム

          【読書メモ】アルチュセールについて

          健康的に生きる

          「simple is the best」 どこで知った言葉なのかも だれが言っていた言葉なのかも知らないけれど なぜか、だれもが知っているこの格言 シンプルこそが至上のものである 無駄を削ぎ落としたものにこそ 最上の洗練が宿る 本当にそうだろうか? そんな問いに出会ってしまった最近の話 ここ最近は建築がおもしろいなあ、なんて思って 建築史について勉強してみたり 都内の有名な建築を少しずつ観に行ってみたり しながら新しい趣味に肌を馴染ませている そんな今日この頃

          健康的に生きる

          なにをするかで世界と繋がる

          さいきん、納富信留さんの著書 『プラトン 理想国の現在』を読んでいて 現代人がプラトン哲学(主に主著『国家』)を 読む意義とは、みたいな問いに対して あーでもない、こーでもない、と考えていた 基本的人権という概念、 法治国家というシステム、民主主義という思想、 そしてそれらをうまく乗りこなせない人類、 そんな時代に"理想"を語るプラトンが果たす 役割とは... そんな、明確で簡潔な結論のないことと 今夜の献立はなににしよっかな、ということを 交代交代で考えながら電車に乗っ

          なにをするかで世界と繋がる

          ピッチャーであり、同時にバッターであるような矛盾

          さいきん建築に興味がわいてきて 建築史について勉強してみているときに モダニズム建築が抱える哲学的な問いに出会った 『建築は"自律的"であるべきなのか』 形而上学的な領域で 解像度荒く、ぼんやり薄目で概念を眺めると どうやら建築は哲学的で、哲学は建築的らしい ここでいう"自律的"というのは 18世紀ドイツの哲学者カントの哲学に 由来していて、とても小難しくて抽象的なので ふにゃふにゃにほどいて溶かして言い換えると "0→1"をしているか、ということ 別々のコミュニティ

          ピッチャーであり、同時にバッターであるような矛盾

          依存してしまう私たちへ

          なにかとか、だれかに依存してしまうことって 悪いことなのだろうか したくなくてもしてしまう人にとっては それはきっと苦しく、忌むべきことで したくてもできない人にとっては たぶん羨ましくて、少しだけ悲しいこと 依存の善悪と人の在り方のバランスは とてもぐらぐらしていて難しいと思う たった1人だけで生きていては 主体も他者も、存在も非存在も なにもかにも分からなくなってしまう ちっぽけで寂しがりやで群生生物的な 存在の在り方しか表象しえない僕たちは どうしたって、どこ

          依存してしまう私たちへ

          ため息の、その次は

          ため息の、その次が大事なんだと ここ最近ふと気づかされた気がする はぁ、 と吐いたため息を ため息のままに止めてしまうのか その次にもまた懲りずに酸素を吸い込んで 静かな深呼吸にしていくのか 吐いて、吸って、の循環だけは どうか止めないようにと 本の中のもはや息をしていない哲学者たちは 静かに淡々と語りかけてくる ため息の、その次は ニーチェの言う「力への意志」であり デリダの言う 「決定不可能性の中の決定の経験」でもあり 九鬼周造の言う「いき(粋)」という姿勢そのも

          ため息の、その次は

          アウフヘーベン、しない

          『世界に価値のない人など  ただの1人も存在しない』と 『自分にとって価値のない人は  この世界に存在している』は 矛盾しつつも両立していると思う 別に綺麗ごとを話したいわけではないし 個人的な恨み辛みが積もっているわけでもない でも、声を大にしては言えないけれど そんな実感がある気がしている 前者だけが真実なのだとしたら 僕たちはずいぶん多くの人たちを 許さなくてはいけなくなるだろう 自分にとっての辛い経験の渦中にあった人も 最低限のリスペクトすらない関係性も

          アウフヘーベン、しない

          ハーゲンダッツを食べきれないくらいの憂鬱

          少し前に友達と中目黒で飲んで 酔い覚ましに夜の街を散歩していたときに その友達から "本の中に答えを探しているような人" と言われた うん確かに、言い得て妙だな と我がことながら思った その友達(正確にはその友達の友達)は僕に 「本を読むのをやめれば?」とも言っていた そうだね そうできるなら、そうしたい プラトンに言わせればそれは 『パルマコン』的なものなのかもしれない 治療薬でありながら毒薬でもあり 毒薬でありながら治療薬でもある 答えがあるから読んでいた

          ハーゲンダッツを食べきれないくらいの憂鬱

          ゆらぐ

          雨の音が心地良かったり 川の流れに耳を澄ませて癒されたり 樹々のざわめきに心が落ち着いたりするのは 『1/fゆらぎ』という 僕たちの生体バイオリズムに適合した ちょうどよい"規則的に不規則"な音に 脳が親和性を持っているかららしい 規則的に不規則、考えてみれば変な言葉だ 極悪な天使とか、最善の妥協点とか 神様みたいな良い子(=人間失格)とか その内側に自己矛盾を孕んでいるような そんな、心がざわざわするような言葉 だけど、どうやらこの世界は そんな風に出来ているらしい

          ゆらぐ

          信じられるものを一つだけ

          信じられるものが一つだけあればいい ただ一つだけあれば それだけで生きていける 個別案件的に一つひとつ対処して 世界の多様性と複層性と 絶えず流転していく刹那の無常感を受け入れて 必要/不要、善/悪の 形而上学的二項対立ではなく イデア論的で超越論的で、否定神学的な 絶対普遍の真実でもなく ただ、世界の在りのままを愛していくのは 僕にはずいぶん難しくて、とても息苦しい どんなことがあっても味方だよって 言っていた 辛いことがあればすぐ駆けつけるよって 言っていた

          信じられるものを一つだけ

          わがまま

          他人を傷つけないで生きることは 出来るのだろうか なんて考える 「いや、無理でしょ」 って言う人にも出会ってきたし 「考え続けること自体が尊いのかもね」 って言う人にもごく稀に出会ってきたりもした どっちなのかはまだ分からない けれど一度、巡っている思考を一休みさせて ただ静かに生きることを願う日常で ひとつだけ、わがままを言ってもいいとしたら 他人に傷つけられないで生きたい この気持ちは、言葉は 誰かを傷つけているのだろうか

          わがまま

          ゆく河の流れは

          いつからだったんだろう、とか どこからだったんだろう、とか じゃあどこからやり直したら こうはならなかったんだろう、とか 後悔とか、遣る瀬なさとか どうしようもない寂寥感を感じる度ごとに そんなことを考えてしまう いつの間にか上手くいかなくなって 音も立てずに崩れていった関係性が 振り返るといくつもあったような気がする 気がついたら失ってしまって 今はなす術なく立ち尽くすしかないような ひやりと冷たい空虚に思いを馳せては 「これが諸行無常ってやつなのかな」なんて 諦め

          ゆく河の流れは