『行願品疏』を読む(二回目)

教起因縁1

・本文

○今初。夫法無言象、非離言象。無言象而倒惑、執言象而迷筌。故聖人利見垂象設教、必有由矣。非為小事、必由大緣。非是一因、因緣無量。親能発起目之為因。疎而助発名之為緣。先因後緣、各開十義。(『行願品疏』卍続蔵7・472上)

・書き下し

今は初めなり。それ法に言象無く、言象を離れるにもあらず。言象無くして倒惑し、言象に執われ筌に迷う※1。故に聖人利見して、象を垂れ教を設くるに必ず由有り。小事を為すにはあらず、必ず大縁に由る。一因にはあらず、因縁は無量なり。親ら能く発起するをこれを目づけて因と為す。疎にして発を助くるを縁と為す。先に因、後に縁を各々十義に開く。

・現代語訳

今は初め(教起因縁)である。そもそも法には言象は無いが、それらを離れるものでもない。言象は無いのに、言象に執われて、(悟りに至るための)道具に迷う。そのため聖人が利見して、象を垂れて、教えを設けるのには必ず理由がある。小さいことを為すのではないため、必ず大縁による。一つの因に依るのではなく、無量の因縁がある。自らによって起こることができるものを因として、疎であって、発することを助けるものを縁とする。先に因、後に縁について十義に開く。

・解説

 教起因縁を示す前に、そもそも「教が起きる」とはどういうことであるのかを説明している。そもそも仏の教えは言語表現が存在しない。しかし、言語表現を離れてはそれを表現することができない。言語によって教えを説くと、それに執着をしてしまい、還って目的である悟りから遠ざかるというリスクがある。そのリスクを負ってまで、仏が教えを説くのには必ず理由があると言っているのである。
 後半では因縁の定義について説明している。因とは自己原因であり、縁とは関係は薄いけれども、発するのを助けているものであるのだという。

1.筌とは魚を取るための罠のことである。仏教では、それが転じて方便のことを指すようになる。ここで言わんとしているのは方便である言語に執着をするということである。

 一週間で少しずつ読んでいって、毎週火曜日、まとまった量をノートで公開するつもりだった。けれども、どうも怠けてしまうので、明日から、少しずつでも、毎日、ノートを書いて公開しようと思う。


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