涙をなくしたあの日
2020年5月5日、叔母がこの世を去った。
突然のことで何の前触れもなかった。
1ヶ月前に会って、楽しくビールを飲み交わしたばかりなのに。
こんなに急で、こんなに悲しいことはなかった。
僕が今まで生きてきて経験したどんなことよりも悲しかった。
なんでこうなったのか全く意味がわからなかった。
どんだけ考えても理解ができなかった。
僕の母親は四姉妹で、亡くなった叔母は1番下で1番若かった。
四姉妹はすごく仲が良く、何かあるといつもいっしょにいた。
4人で頻繁に集まりいつも楽しそうに話していた。
そんな4人の姿を小さい頃からずっと見ていた。
四姉妹のお父さん(僕のおじいちゃんにあたる)は、もう亡くなっているが、とても豪快で物凄くかっこいい人で、家族がだいすきだった。
おばあちゃんももう亡くなっているが、とても可愛らしくて優しい人だった。
そんなおばあちゃんとおじいちゃんの下に四姉妹、その四姉妹の下に僕を含めた従兄弟が8人、従兄弟もほぼ結婚しているのでその下にもまた子供たちが、全員合わせると30人ほどの親戚がいることになる。
そんな大所帯の親戚たちでいつもおじいちゃん家に集まっては、みんなで楽しく話した。
餅つき、花見、盆、月見、クリスマス、年越し、これらの行事は決まって集まった。
みんながみんなかけがえのない家族で、物心ついたときから深い絆で結ばれていた。
わかりやすく言うと、サマーウォーズの陣内家みたいな感じ。
小さい頃、母親が僕の面倒を見れないときは、四姉妹のうちの誰かが決まって僕のそばにいてくれた。
みんな実の息子のように可愛がってくれた。
だから、僕は母親が4人いると思っている。
その中でも、特に1番下の叔母とは長い時間をともに過ごした。
1番下の叔母の息子(僕の従兄弟にあたる)が2人いるのだが、1人は僕の1つ下、もう1人は僕の1つ上で、僕はちょうどその従兄弟たちに挟まれている状態。
しかも、従兄弟8人のうち男は僕たちだけだったので、小さい頃はいつもその3人でいっしょに遊んでいた。
保育園や習い事も同じということもあり、1番下の叔母が僕の面倒を見てくれることが多かったのだ。
そんな叔母が亡くなった。
2020年5月5日。
皮肉にも子どもの日のことだった。
僕からしても辛く悲しいことだったのに、四姉妹のことや従兄弟たち(叔母の息子)のことを考えるととても心が苦しく、胸が痛かった。
僕が知らせを受けたのは叔母が亡くなる2日前の夜、母親から叔母が倒れたと一報が入った。
バイト中にそのLINEを見た瞬間、自然と涙が溢れた。
大丈夫、あの人なら絶対大丈夫、死ぬわけがない、と頭ではそう思っているはずなのに、なぜだか涙が止まらなかった。
僕はそのとき、芸人になるために東京へ上京したばかりで忙しない日々をおくっていたのだが、叔母が倒れたと聞いていてもたってもいられず、地元の福岡へ帰省しようとした。
だが、NSCのことや新しいバイト先のこと、コロナ渦真っ只中であったことや地元の親戚たちに負担をかけたくないことやらで、なかなか帰る決心がつかずにいた。
なにより、僕が帰るとなにか縁起が悪い気がして、今はただ信じる、ただ信じて待つ、それが僕にできる1番のことではないかと、色々考えた末にそう思った。
そして、次の日の深夜、時計は回って5月5日、叔母が亡くなったという連絡がきた。
枯れるほど泣いた。
夜通し涙が止まらなかった。
こんなことになるなら、やっぱり帰ればよかったと後悔した。
もう体内の水分は何も残ってないんじゃないかというくらい涙を流した。
夜が明けても涙は止まらなかった。
ぼやける視界の中、僕は朝の飛行機を予約した。
そして、涙腺が緩みっぱなしのまま飛行機に乗った。
地元に帰り、親戚たち全員と会った。
親戚たちは明るかったが、どこか胸の奥の方で暗い、そんな表情をしていた。
親戚たちと話すたびに、突拍子もなく涙が溢れた。
何の脈絡もなく急に泣き出す僕を親戚たちはこぞって心配してくれた。
叔母の旦那さんと息子(僕の一番近しい従兄弟2人)が、親戚たちの中で一番明るかった。
その姿を見るたび、胸が苦しいどころではなかった。
僕なんかが泣きじゃくってる場合じゃない、僕みたいなのがいつまでも泣いているから明るく振る舞わせてしまっているんだ。
でも、泣き止んだと思えばまた唐突に出てくる、何がきっかけかはわからないが急に溢れてくる、僕にはこのばかになった涙腺をどうすることもできなかった。
明るく振る舞ってくれるみんなに甘え、僕は涙をこらえるのをやめた。
その日は翌日の通夜に備え、みんなで楽しく朝まで飲み明かした。
お酒がだいすきだったあの人のことを語り合いながら。
そして、翌日の通夜と、その翌日の葬儀を終えた後、何故かまだ叔母はそこにいる気がした。
まだこの世にいるというか隣にいるというか、言葉じゃ言い表せない不思議な感覚だった。
それは、おそらく出棺と火葬がまだ残っていたからだと思う。
出棺と火葬がほんとに最後、もうほんとに叔母に会えなくなる気がして、通夜と葬儀の時間がずっと続けばいいと思うほどだった。
魂はもうこの世にないけれど、肉体さえあればまだ生きている、そんな感じがした。
肉体がなくなり骨だけになったとき、この辛さや悲しみがどんどん薄れていってしまうのだろうか、叔母との思い出や過ごした時間もどんどん忘れ去っていくのだろうか。
僕は、この悲しみが薄れていくことを恐れた。
それは、叔母への想いも薄れていくような気がしてならなかった。
だから、これを機にもう二度と泣かないと決めた。
これから先、涙が出そうになることがあっても、もう泣かないということを胸に誓った。
僕は、今回の叔母の死で一生分と言っていいほど泣いた。
今後、なにか泣きそうになることがあれば涙をこらえ、叔母の死を思い出す。
叔母の死で一生分泣くほど悲しかったことをそのたびに思い出す。
そうすることで、この悲しみが僕の中で薄れていかないように、叔母への想いが薄れていかないようにした。
そして、出棺のときがきた。
叔母のことを忘れることはないと思っていても、頭が言うことを聞かず、この世から肉体がなくなることが嫌で嫌で仕方がなかった。
僕たちのそばからほんとに叔母がいなくなってしまうようで寂しかった。
このとき、最後の涙を僕は流した。
火葬場の職員の方が、このスイッチを押すと火葬され、故人との最後だと案内してくれた。
スイッチを押すのは叔母の旦那さん。
旦那さんと叔母はとても仲が良く、叔母が倒れたときも2人でゴルフに出掛けていたぐらいだ。
旦那さんからすると、とても辛く悲しい瞬間のはずなのに、旦那さんはスイッチを押す瞬間、
「ミディアムレアで」
とおどけてみせた。
僕たちは笑ったが、火葬場の職員の人は気まずそうなぎこちない笑みを浮かべていた。
絶対に1番辛いはずなのに、ここでも明るく振る舞う姿に、僕は衝撃を受けた。
僕もこんな人になりたいと思わせてくれた。
あれから3年半経つが、いまだに僕は泣いていない。
オリンピック金メダル獲得の瞬間やお笑い賞レースの優勝の瞬間、感動的な映画など数々の障壁はあったが、今のところなんとかこらえている。
なんとかこらえるたびに、僕は叔母のことを思い出し、叔母との日々を胸に刻んでいる。
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