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Ryu's Bar 気ままにいい夜

「Ryu's Bar 気ままにいい夜」はまだバブルの高揚さめやらぬ1987年から、小説家村上龍を迎えたトーク番組だ。子細は概要をまとめたサイトがあるので確認して欲しい。

俺がボーヤだった時、殿のマンションで片付けをしたり簡単なツマミをつくり、そのまま殿が酒を飲みながらTVを視る横で「帰っていい」と言われるまで傍らにいる事がままあった。その夜は「Ryu's Bar」というスタートしたばかりの番組を視ていた。

──殿は「配慮の人」であり、当然だが番組出演中も自分がその番組で何を求められているかを理解した上で振る舞う。そこでの発言などは誤解を恐れずに云えば「求められたビートたけし像」に応えた姿でありそこへの「本音か否か」の問いは無粋というものだろう。

しかしプライベートで殿がTVを視ながらつぶやく言葉は100%本音で容赦がない。

「Ryu's Bar」はこの時、村上龍35才。24才で『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。『コインロッカー・ベイビーズ』でも野間文芸新人賞を受賞をするなど、その時代を代表する若手売れっ子作家であり、元から「出たがり」の気質でもあったのだろう、村上氏のインテリジェンスとゲストが織りなすトークを期待する向きも多かった。『なんとなく、クリスタル』の田中康夫など、この時代、作家は「モテる」職業だった。

──その日のトークではたまたまスポーツの話題となり、その中で陸上競技の長距離競走に触れ「同じ所をグルグル回っていてどこがおもしろいんだ」と村上氏が云った。

するとそれまでじっと画面を見つめていた殿が不意に

「こいつバカだな。長距離走が奥深くておもしろい事もしらねえんだな」

そう俺の顔を見ながら云った。俺が陸上競技経験者で『スポーツ大将』での得意競技が長距離走であった事から、同意を求める訳でもないだろうが、その意味を理解出来ると思ったのだろう。

殿は日頃から世に名が出てきた著名人の、特に作家や「識者」に類する人物へ一度マークするや著書を読み、雑誌でのコメントや出演番組を注視し、まるで何かを暴くかのように、鋭利な洞察をけしかける。

──俺は『コインロッカー・ベイビーズ』が好きだった。主人公が棒高跳び経験者である背景も描かれていたので、村上氏が陸上競技に堪能であると勝手に思い込んでいたので、殿の発言にハッとした。

──殿が云うように長距離走は傍目からはわからぬ「読み合い」がある。他の選手の疲労度や呼吸の調子。速いペースで入ったのか遅いのかなどで皆がお互いにこれから揺さぶりやスパートをかける「勝負所」を常にはかっている。それを読めない選手は勝てない。一見単純に思えるスポーツほど単純が故に勝機は限られている。そこが奥深くおもしろい所だ。

この小説も当時の社会問題であった「コインロッカーに置き去られた孤児」を単に「暴力的な性格に育つ」と短絡的に結論付けたような小説で、今思えば安直で首をかしげるところはある。

──もとより小説家本人がTVに出演しフリートークに身を任せる事は本人が想定しているよりもリスクがある。なぜなら小説家は作品で読者を「上手に騙す仕事」ともいえる。ありもしないストーリーを創りあげ、それをあたかも眼前で起こっている事実のように読者を引き込む。

読了後にはその作家へのさらなる「思い込み」が増えるはずだ。読み手はほんの一行だけの描写から作家がそれらに関して堪能だと錯覚する。作家自身はその一行を書くために一から取材と調査に時間をかけ、推敲を重ね数行から磨きに磨いた末の一行で但し、書き上げてしまえば直ちに忘却してしまうような現実であっても。

この時の村上氏の発言は本来俺が「美しい誤解」のまま「敬意」に繋がっていたところをいわば「ネタばらし」をしたようなものだろう。まさに「無粋」とも「愚」とも言える所業だ。本人は恐らくそんな事に気付いてはいない筈だ。

トーク番組、特に進行役は繊細な状況判断が必要で、自身が「人からどう見られているのか、どう見せるべきなのか」をコントロールできる感覚がなければ難しいし既存のイメージを毀損するぐらいならやる意味はない。

ハッとした俺は今一度画面の村上龍を凝視した。すると、もともと野暮な髪型でもあり、老けた狸顔で短足の体系にスタイリストに着せられたままの“着こなせていない”スーツと一気に“粗(あら)”ばかりが目についた。

殿は日頃から田舎者が着飾り都会人になりすまし気取る姿を好んでバカにするが、まさにそこにあった村上龍の姿はそんな“佐世保の田舎者”そのものだった。それ以降、村上作品は好んで読みはしたが、「美しい誤解」をする事は二度となかった。



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