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『人はどう死ぬのか』久坂部 羊

新聞広告を何度も見て、ずっと「読んでみたい」と気になっていました。
Shinjiyさんのおすすめもあり…。


久坂部 羊さんは、小説家・医師。
デビュー作の『廃用身』を読んだときには、あまりの衝撃に頭が混乱したことを覚えています。

『悪医』で、第3回日本医療大賞を受賞。
noteの下書きにこの作品の感想が未完成のまま残っていました。

 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょうか。
 問題は死が一発勝負で、練習もやり直しもできないということです。
 上手に死ねなかった人を看取りながら、もしもこの人がもう一回死ぬことができたら、次は失敗しないだろうになと、よく思ったものです。しないほうがいいことを、いろいろして死んだ経験を活かせるからです。

はじめに p.3〜4より抜粋


「はじめに」のこの箇所を読んで思わず笑ってしまいました。
しかし現実は決して笑えるものではありません。

しない方がいいことをして死んだ経験…

徒らにチューブに繋がれ、酸素マスクで口を塞がれ、最期を迎える…

人間死ぬ時はいくらジタバタしても死ぬ。
延命治療をして寿命がのびたとしても、ある程度の年齢ならば、僅かな差です。

「ご臨終」
人生におけるクライマックスですが、呼吸が止まって、心臓が停止し、瞳孔が開いても、一部の臓器はまだ生きていたりするのだそうです。

死亡時刻の「何時何分」も、実はそんなに厳密なものではなく、最後の一呼吸や、心電図が最後にピコーンと波打ったりすることがあるので、余裕を持って、徐に告げるのだそうです。
心臓マッサージなども本気でやると骨折してしまうので、フリだけ行うのだとか。
家族の悲しみの度合いも見極めつつ、納得させるための儀式のようなものだといいます。

医師のクールな視点と、ちょっとユーモラスな視点。
小説家ならではのこの書きぶりはさすがです。

父を亡くしたとき、わたしは父のために、最善のことが出来ただろうかと自問自答しました。
今でも苦い思いが、胸に去来します。
それは親の死に目に会えなかったことへの後悔です。

父は自分で癌の手術を拒否したために、退院を余儀なくされ、看取りまでしてくれるケアホームに入居しました。
途中入院もありましたが、在宅医療を受けながら普通に生活し、同室で暮らしていた母の手を握り、「お父さん、ありがとう」の母の声に見送られて静かに旅立ったといいます。
在宅医療の看護師さんから、父の最期の様子を聞くことができました。


死ぬことは、生き物としての自然現象です。
しかし、現代人は死ぬ間際まで医療を施されます。

死にそうなときは、寧ろ救急車を呼ばない方がいい(例外もあります)とまで筆者はいいます。

家での看取りは江戸時代までは当たり前、昭和の初期までもごく普通のことでした。
昔の人が出来たことを現代人ができない筈はないといいます。
在宅医療も充実しています。

我が国は平和で、死が身近なものではなくなっています。
とりわけ日本人は死を特別なものとしてタブー視する傾向があるといいます。

筆者は、外務省の医務官としての海外経験から、日本と外国の死生観の違いについても述べています。
死が身近にあり、死を受け入れやすい国民性。
ありのままを受け入れる強さ。
宗教や経済、医療のレベルも関係しているようです。

進んだ医療がもたらす不安もあるといいます。
なんとかなるのでは…という期待、病気のことはネットでいくらでも調べることができる時代です。

人間ドッグ大好き、日本人。
病気でもないのになぜ検査をするのか。
また、病気を見つけるために検査しているのに、なぜ告知することを躊躇うのか。
外国人医師はこのような疑問を持つのだそうです。

既に字数オーバーなので、内容については、この写真をご覧ください。

裏表紙


ある程度の年齢になれば、死を受け入れるほうが上手に死ねる

この言葉がとても印象的でした。


日本人は辛抱大好き。
麻薬は怖いものだという思い込みがあります。
わたしは死ぬ間際に、痛い痛いと苦しみたくない。
これが唯一の願いです。
モルヒネなどを使って緩和ケアを希望します。

たとえそれで命を縮めたとしても、ある程度の年齢なら、誤差の範囲内です。
家族も慌てず騒がす、静かに見送ってほしいものです。


面白く、とても為になる本でした。


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