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動物病院のカルテ 礼儀正しい

「相田先生は、きっと育ちの良いお嬢さんなのだろう」
今年から中途採用で就職した、3年間動物病院で勤務した経験のある獣医を見て、羽尾先生たちはそう結論づけた。

犬の卵巣と子宮を摘出する手術。
執刀は相田先生で、助手は羽尾先生。
羽尾先生の方が3年ほど経験が長いので、確かに先輩ではあるのですけど。
「では、始めます」
「お願いします」
「お願いします」
「お願いします」
執刀医である相田先生の呼びかけに、羽尾先生と麻酔医と外周りの看護師さんの声が重なります。
「メスお願いします」
「はい」
「ありがとうございます」
お腹に真っ直ぐな切開ラインがひかれます。
「メッツェンお願いします」
「はい」
「ありがとうございます」
皮下脂肪がメッツェンバウム剪刀で分けられ、
「モスキートお願いします」
「はい」
「ありがとうございます」
以下、卵巣を把持しては、
「ありがとうございます」
器具を渡して、
「ありがとうございます」
糸を切っても、
「ありがとうございます」
器具を受け取り、
「ありがとうございます」
オペが終わって、
「ありがとうございます」
この短時間で、何回ありがとうと言われたのだろう?
確か『有り難う』って、あり難いほどのことをしてくれた事に対する、お礼の意思表示ではなかったっけ?
それにしてはあり過ぎやろ!
羽尾先生は埼玉出身のくせに、頭の中ではエセ関西弁でツッコミを入れてしまっていました。

午後の診察。
診察は羽尾先生で、助手が相田先生。
「じゃ、佐々木さんをお呼びして下さい」
「わかりました」
扉を開けて待合室に向かい、声を掛けます。
「佐々木チョコさまー。診察室へお入りくださーい」
(チョコさま?)
他の待っている患者さんたちが、キョトンとした顔になっても、相田先生はどこ吹く風です。
羽尾先生たちも、最初はギョッとしましたが、今ではようやく慣れました。
「悪い事、ではない、かな…」
そう言って、院長は苦笑いをしていたものです。

帰宅前に入院の動物をみてまわるのは、獣医たちの習慣です。
「明日まで頑張ってね、ミルクちゃん」
(この人、犬と喋るんだ)
そう羽尾先生が思った刹那。
「それでは、ご機嫌よう」
相田先生はケージの扉越しに頭を下げました。
ご機嫌よう、と実際に使っている人を見るのは、羽尾先生はこれが初めてでした。

これからの自分になのか、動物病院になのか、はたまた相田先生になのか。
羽尾先生の胸には、将来に対する漠然とした不安が去来したのでした。

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