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第二言語:そういうことだったか!と最近分かったこと

梅が咲いた
3年前母が亡くなったあと
ずっとお世話になっている植木屋さんに
奈良の家から東京に移植してもらったものである。


勝手に上がって来たYoutubeをなんとなくクリックした。
もともと第二言語の習得について関心があり、勉強したり、自分の経験に照らし合わせたりしてきた。

ベッドの中で聞くでもなく聞いていたら

3:50あたり。③heals Trauma

第二言語でトラウマを語る効用。

私にとって第二言語である英語は、母語の日本語より感情に密着していないのは経験でわかっている。

例えば夫ジェイとの喧嘩で。
ジェイはなんといってもアメリカの生まれと育ち。ベトナム戦争にも行っているくらいだから、ありとあらゆる罵詈雑言を知っている。もちろん英語でのことだ。
でも私のその分野での知識ときたら、いわゆるFXXXとかSXXXとかそんなレベル。ジェイが怒りに振り回されてなんと言おうと私にはピンとこないのだ。
へ~それどんなスペル?と頭は考えている。

ある時、その分野での語彙があまりに乏しいので、喧嘩の時はジェイが私に浴びせた言葉をそのままお返しする方法を取ることにした。
私はいたって冷静だがジェイの怒りは倍増していた!
よし、この方法に限るとニヤリとした私。
ところが、それを聞きつけたPSW(パーソナルサポートワーカー)のひとりに、
あ~たそれ相当ひどい言葉よ~と諭されたのである・・・。

ジェイが病気になった後、海外経験の長い日本の友人から

あのクリア―に分からない世界(第二言語の)で、その状態をよく切り抜けたねと感心されたことがあった。

確かに
911をコールして救急隊との対応とか
ERに運びこまれたジェイの容態の理解とか
医師の説明とか
治療方法の納得とか

私の頭の中に怒涛の英語が押し寄せていた。

ERで医師の説明があった。
感染が体中を巡っていて止められない。
このままではあと2週間半くらいだろうと。

そのときドクターがSepsisという病名を使ったかどうか私の記憶にない。
しかし夫の病状の把握はできている。

結局ジェイは命を取り留めたのであるが、退院時、診察記録を手にしたとき(希望すれば診察記録をコピーしてくれる)そのSepsisの文字があってそれはつまり

敗血症。

その日本語を知った時の私の衝撃といったらなかった。
あのときERで、ドクターから日本語で言い渡されていたら、私はもっと破滅的な気持ちでいたかもしれない。

上のリンクの動画では

第二言語は気持ちとの密着性が少ない分、自分のトラウマティックな体験を第二言語で理解したり説明したりすることによって、一歩下がって自分を見て、起こった事柄を冷静に受け止めることができるというのである。

ERであと二週間半と宣告された後、ジェイは復活して湖畔の家に戻った。
しかしそこで待っていたのは、病気の前と同じジェイではなく在宅緩和ケアであって。
死に向かっていることに変わりはなかったわけである(もちろん私たちすべての命あるものはこの一刻一刻、死に向かっているのであるけれど)

毎日のナース、朝晩のPSW、週一でのドクター訪問の他に、心理カウンセラーにも来てもらうことにした(すべて無償です!)
はじめは、夫ジェイ、カウンセラー、そして私の三人で始まったセッションだったが、そのうちジェイに1時間座って話す体力がなくなり、カウンセラーと私だけのセッションとなった。
私はいったいどれほどのことをこのセッションで表現できるのか、まったくの自信がなかった。愛する人の死を目の前にして。第二言語で。

心理カウンセラーはジェイが亡くなった後も来てくれた。


そうか、そういうことか。
あのとき

あの究極の悲しみにあったとき

私は英語に助けられたのかもしれなかった。
カウンセリングのセッションが
第二言語であったということに。

この動画を見て
今やっと
ストンと腑に落ちた気がしたのである。


ヘッダー写真、奈良からやって来た紅白の梅は無言である

しかし
姉と私の成人の年に植えられたこの紅白の梅の木は
なんと雄弁に私の感情を物語ることだろう。

私を育ててくれた日本語という母語で。

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