坂勘の滞在期、「arrows」の言葉を借りて
春休みを迎えて2日目、わたしは友人が拠点としているシェアハウス「宿場noie坂勘」に訪れ、3日間そこに滞在した。
ふしぎな場所だった。はじめての場所だった。
そこでの経験に、そこの雰囲気に、そこにいる人たちに、そしてこの3日間に、どのような言葉をあてはめるべきなのかがよくわからなかった。「坂勘はどうだった?」という住人の問いにも、「楽しかったです」というありきたりな言葉しか出てこなかった。
だけど、帰りのあずさの中で、ふと頭の中に BUMP OF CHICKENの「arrows」が浮かんだ。
かなり支離滅裂な文章になるかもしれないけれど、滞在中の感覚を忘れないうちに、この歌の言葉を借りて滞在記録を残しておこうと思う。
(以下、引用符の中は全てBUMP OF CHICEN 「arrows」より引用)
"『どこから来たの』と尋ね合い すぐに馬鹿馬鹿しくなる"
坂勘には、ひとまわりもふたまわりも年代が違うような人たちが一緒に暮らしている。にもかかわらず、住民は(たぶん)全員、お互いをあだ名で呼び合っている。わたしも、到着してリビングに顔を出したその瞬間にあだ名をつけられた。もちろん敬語なんて使わない。
そんな住人のみんなと、3日間、一緒にご飯を作ったり、一緒に遊びに行ったり、リビングでいろいろなことを語り合ったりした。
だけど、思い返してみればわたしは、そこを拠点としている大学の友人以外の本名・年齢・職業をほとんど知らない。ましてや、彼ら・彼女らがこれまで何をしてきたのかも。
目の前にいる人の年齢とか、背景とか、性別とか、社会的地位とか
そういうものを一旦全部とっぱらって、ひととひとが混ざり合う場所なのかもしれない。
"迷子は迷子と出会って リュックサックのとりかえっこ"
坂勘には、世間一般から見たらちょっと「変わった人」が多い。
ここにくる人の中には、もしかしたら少なからず「迷子」もいるのかもしれない。世間で「普通」とされている生き方が、考え方が、自分にとって「普通」だと感じられない人(わたしもそうだけど)。だから、マジョリティの中で暮らすのが息苦しく感じてしまう人。
「ここに来るまでは、自分の話なんてしたことがなかった。
だけど、坂勘では自分のことを話すことが多いから…」
リビングでの夕飯中、住人のひとりから出た言葉が印象に残った。
坂勘には、ちょっとしたルールはあるけど「普通」はない。
その人自身の「当たり前」があって、それがちゃんと共存している。
そして、共存するだけじゃなくて、その「当たり前」を住人同士が交換しあっている。
"見つけたものは本物だよ 出会ったことは本当だよ"
坂勘には、絶えず人の流れがある。
一度だけここに来る人、
時々行き来する人、
昔はよく来ていたけど最近は来なくなった人、
最近住むようになった人、
ここに長い時間住んでいる人、
以前は住んでいたけれど、別の場所にうつった人、
滞在中にわたしに話をしてくれた人は、次に来たときはもういないかもしれない。もしかしたらもう会うことはないかもしれない。次に来たときは、また新しい出会いがあるかもしれない。
だけど、一緒にご飯を作ったこと、お菓子を作ったこと、極寒の中倉庫の片付けをしたこと、諏訪湖のほとりでパンを頬張ったこと、深夜に話し込んだこと、そのひとつひとつの出会いや経験はわたしの中に降り積もって残っていくのだと思う。
3日間の滞在じゃ全然足りない!と思うほど、ここはおもしろい場所だった。きっと、そう遠くない時期にまたここに足を運ぶ気がする。
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