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東御市を歩く②~『旭将軍』木曽義仲挙兵の地・白鳥神社

引き続き海野宿です。
今回は東側端にある、白鳥神社へ参ります。



白鳥神社


沿革

 この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭神としています。

 また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ(長野市松代町)分祀されています。

 往古より本海野の住民を始め近郷近在の人々より産土神として崇敬の念を集め春と秋には海野宿のえんどうに幟が立ち並び、例大祭が行われています。


境内の写真

白鳥神社の社叢

 海野宿の東端に位置する白鳥神社は、中世豪族海野氏の氏神であったが、現在は本海野地区の産土神として祀られている。

 この神社の社叢は、けやき・杉・槐(えんじゅ)などの大木によって構成されており、立派な鎮守の森となっている。

 拝殿前のけやきの御神木は、胸高周囲約5.8m・樹高30mにもおよぶ大木である。


参道

土俵がありますが…
東御市は雷電為右衛門の出身地だからでしょうか。
左側の大きな木は御神木です。

真田の家紋と、海野の家紋が描かれている幟です。


拝殿・本殿


御神木の欅

 建久二年(1191)海野幸氏(うんのゆきうじ)が現在の場所に白鳥神社の社殿を返したと伝わります。木曽義仲の嫡男・清水冠者義高の側近として鎌倉入りした海野幸氏は、のちに源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。一族の中興の祖でもあった幸氏。樹齢から推定して、その時代に植えられた古木であるのかもしれません。

 海野の地の栄枯盛衰、その永き歴史を見続けてきた御神木です。


木曽義仲挙兵の地(白鳥河原の勢揃)

 治承五年(1181)六月、後白河法皇の第二皇子、高倉宮以仁王の発した平家討伐の礼旨に応じ木曽に旗揚げした木曽次郎源義仲は、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」にて挙兵しました。平家物語、源平盛衰記に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」です。義仲のもとに馳せ参じたのは樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団を初め、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数二千騎とも三千騎とも云われています。当時の海野郷は滋野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝でした。

 義仲は長野の横田河原、越中の俱利伽羅峠で平家大軍を撃破し破竹の勢いで京都に上洛。寿永三年(1184)一月、征夷大将軍に任ぜられるも、その十数日後、近江粟津で戦死、旭将軍の挙兵はわずか三年の悲運に終ります。

 木曽義仲挙兵において中核を担った海野氏。中原兼遠から義仲を託された踏襲・海野幸親(ゆきちか)のもと、嫡男・海野幸広(ゆきひろ)は侍大将を担い(備中水島の海戦で戦死)次男・海野通広(みちひろ)は義仲の祐筆で軍師としても活躍した大夫房覚明であると云われています。また、幸広の嫡男、海野幸氏(ゆきうじ)は義仲の滅亡後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。


御朱印

直書きで500円
海野の家紋、白鳥と『旭将軍木曽義仲公挙兵之地』と記載された押印。
情報がぎっしり詰まってていい感じです!


アクセス

海野宿内東端(しなの鉄道 田中駅徒歩20分)


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