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東御市を歩く③~雷電為右衛門の生家

東御市の最後は
無双力士・雷電為右衛門の生家へ行きます。

2022年に御嶽海関が大関昇進。
長野県出身としては『1795年の雷電以来227年ぶり』で話題になりましたね。



雷電為右衛門生家

無双力士 雷電為右衛門

 天下無双の大力士雷電為右衛門は、明和四年(1767)信濃国小県郡大石村(現東御市滋野乙)に生まれた。父は半右衛門・母はけんといい、幼名は太郎吉という。

 当時近隣の長瀬村(現上田氏長瀬)の庄屋で、相撲好きな若者が世話をしていた上原源五右衛門宅に太郎吉は寄宿して、庄屋が開いた相撲道場『石尊之辻』や近くの寺子屋(長昌寺)で相撲と学問を学んでいた。

 折しも江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。太郎吉は浦風に相撲取りとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七歳で江戸相撲に加わり、谷風の内弟子として技を磨き、松江藩のお抱え力士となり寛政二年(1790)関脇で初土俵、寛政七年(1795)には大関に昇進、以後十六年二十七場所の長きにわたり大関としての栄位を保持し、江戸本場所二十一年間の中で、二百五十四勝十敗という古今最高の成績を残した。

 雷電には禁じられた手が三つあった。『張り手』『かんぬき』『突っ張り』で、相手にけがをさせるからということで封じられた。

 雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退、その後は松江藩相撲頭取に任じられた。文政二年(1819)までに『諸国相撲控帳』『萬御用覚書』(雷電日記)を書きあげ職を辞した。

 文政八年(1825)二月十一日、妻にみとられ五十九歳で没し、松江藩ゆかりの報土寺(東京都赤坂)に葬られた。このほかに分骨され、故郷大石村の関家の墓所・島根県松江市・千葉県佐倉市にお墓がある。


雷電の鋤石

 この石は、雷電の鋤石といって雷電が田畑に行き帰りに、鋤の先につるして歩き、肩、腰、足を鍛えたと言われています。

 別に「力石」とも呼んでいます。


生家内部

『衆人愛敬(しゅうにんあいぎょう)』→多くの人に愛され尊敬されることを意味します。また、大衆に愛されることが一座の中心である、あるいは広く一般大衆の人気を得ることが芸能の基本であるという考え方でもあります。

裏は、『金剛力』です。


二階です。暗くて撮影できなかったのですが、左側に桟敷席が10席あります。ここにはタニマチが座っていたそうです。

梁がすごいですね!

雷電の力臼


『雷電の由来』


改築前の雷電生家


雷電生家模型


アクセス

しなの鉄道 滋野駅より徒歩30分程度


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