権威主義を批判する人が権威主義になる話

あまり知られていないかもしれませんが、私たちのようなアーティストはときどき小学校や中学校、または大学等に呼ばれて授業やワークショップをさせていただくことがあります。
私は過去に、小学生にインスタントカメラを渡し、写真を撮ってもらいそこからコミュニティアイデンティティを分析するというワークショップをさせていただきました。

このような授業やワークショップをしているアーティスト同士で集まって話し合う機会があったりします。
以前私は舞台芸術家らと集まって話しました。

その人が言うには、現代の日本の教育は答えありきで授業が進むことが多く、テキストに書いてあること、指導者が望む答えを答えられる人が優秀として扱われ、自分で一から創造していく子が評価される場がないということでした。
概してそういう創造的な子は変人扱いされることが多いのですが、そういった変人を除け者にする社会だからこそ、日本は大きく変革しないのだというのです。

この主張には、私も賛成する部分が多くあります。
学習指導要領が改訂されたりもしましたが、現代日本ではまだあらかじめ用意された答えを答えられる人が評価される傾向にあります。

しかし問題はここからです。
そう主張していたアーティストの主張はどんどん加熱していき、「ゆとり教育のせいで、若者たちが失敗を恐れるようになり、ゆとり世代の大人たちに育てられたから現代の子どもたちは自分を表現することができなくなったのだ」と言い始めました。
また、そのアーティストは大学生向けに身体表現のワークショップをしており、東大生が一番自己表現が乏しいとし、東大生は(日本の官僚にまだまだ女性が少ないことを例に)男子校的社会で育っているから、他校の女子学生と一緒に身体表現をする際にも恥ずかしがって行動に移せないと主張。
おしまいには、そのような東大生が将来官僚になり、日本の仕組みを作っているから日本の社会は閉鎖的なままなのだと言いはったのです。
私は「うわー、帰りてぇ」と思ってましたが、そこに集まっていた他のアーティストは割りとその人を称賛気味でした。

さて、アーティスト同士で話すとこういう話になりがちです。
全員が全員というわけではないですが、アーティストは既存の学校の仕組みに不満を持っていたり、懐疑的な面があったりします。それゆえ、アーティストが行なう授業やワークショップが魅力的だったりするのです。

ただし、私はアーティスト同士で集まったときのこの手の主張が嫌いです。
こうはなりたくないなと思っているからこそ、私は35歳で大学に入り臨床心理学を学んでいるのです。

では、この手の主張のどこが嫌いなのかというと、権威を批判しているようで、結局批判している本人も権威主義になっちゃっていることです。

既存の学校教育に懐疑的なのはいいと思います。ですが、学校教育と社会の関係を理解しているのかというとそれには乏しいように思えます。
私達はつい一言で「学校教育」なんて言ってしまいがちですが、1970年代から1980年代は安定した終身雇用制に基づいて「一億総中流」と呼ばれる時代でした。その時代に子どもたちに求められるのは「一般的な人になること」でした。
1970年代には「ゆとりある教育」が提唱されていましたが、実践されたのは2002年からです。
個人のペースに合わせた「ゆとり」の中で、「生きる力」を育むことが重要視されました。
ゆとり教育はきちんとした検証などが行われないまま実践され、詰め込み教育へ反対していた教育者たちには称賛され、逆の立場の人達には批判され、という分断が生まれます。
その当時の子どもたちは、意見の対立と不明確な「ゆとり」の中で育てられました。
その当時の日本ではだんだん正社員という立場が揺らぎ始めます。「これからは資格をいっぱいとって派遣社員になったほうがいい」なんておめでたい主張がまかり通っていたことを思い出します。
『ハケンの品格』なんてドラマがあったことは記憶に新しいです。
一方、現代では『ダメ派遣男まさお』の時代ですから、社会に対する我々の認識がずいぶん変化したのだと実感します。
”いわゆる”ゆとり教育の後、現代では学習指導要領が改訂され基礎学力の時間が増え、「ハイパーメリトクラシー」の時代になりました。
かつては貧乏な子どもとお金持ちの子どもが一緒に暮らしていましたが、現代ではお金持ちの子とそうでない子どもが別々の空間で暮らしています。
ですので、現代人の我々からすると『ちびまる子ちゃん』の世界はもはやファンタジーで、貧困の子がお金持ちの学校に潜入する『SPY×FAMILY』の方がよりリアルに感じるのではないでしょうか。
このように「学校教育」なんて軽々しく言いがちですが、その次代の社会背景によって学校の教育は常に変化しているのです。

先のアーティストが言った失敗を恐れない世代というのは2000年以前に学校教育を受けた世代ということになりそうですが、では、今の40代や50代、60代は自信に満ち溢れているでしょうか。
私はそうは思いません。
定年退職後も働かないといけないと自覚している人は多く、「こんなに頑張ってきたのに…」と不安を抱えている人がほとんどでしょう。

東大生だから内向的であるという主張にも私は首を傾げます。
なぜなら私は福島県の西会津に取材に行った際、外交的で初めて会う女性やカメラを向けられても笑顔で応える東大生に私は会ってきたからです。

おそらく先のアーティストが言った東大生はシチュエーションに対して緊張していたのではないかと思います。
突然面識もない他校の女子学生と一緒にパフォーマンスをしようなんて言われて「はい、やります」なんて言える人はなかなかいないのではないでしょうか。
もちろん、それらを積極的にする人もいますが、東大生だからというのはおかしい気がします。
これが仮に、その東大生に興味のある女性がやってきて、その東大生にいろいろインタビューなどをしてアイスブレイクができた状態なら結果は違っていたでしょう。
このような場合はその東大生のパーソナリティにだけ注目するのではなく、その時の環境要因を考慮するべきです。

話が長くなりましたが、人がなぜそのような行動をするのかを本気で考えるならば、きちんとロジックがなければならないのです。
それが「東大生だから」「ゆとり教育のせいだから」というキーワードを持ってきて「私はあの人のことをわかっているから」という態度で主張することはまさにパワハラ的行為であり、その主張を絶賛させられる環境に身を置き続けることは権威主義に繋がってしまうよねと思っているのです。


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