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懐古にはまだ早く

コルビー キャレイの歌声を聴きながら遠い昔に2年ほど過ごした街の中を歩いた。  

なぜ唐突に昔の街を訪ねるのか、という自問。眼前を説明するのに適当な言葉を拾い上げたそのときに、ぼくは無性に古い街並みを歩きたくなる。ふと思いついた、自答。自分に、知己に、あるいは思いもよらないような誰かに、遺しておきたい旅の記憶。口に出せば空に消えてしまうような意味の重層を、自分の記憶の中に固定しておきたいからだ。なんの意味も価値もなさない旅自慢はしたくない。
漂っていた僕の旅の空は、とつぜん、秩序だった思惟になり、そんなふうに着地したりする。

文章にしたところで、伝えたい人に・伝えたいことが・伝わるかというと、そういうことは本当に稀だ。それは不安定な左サイドバックからのセンタリングのよう。意味の重層は、その複雑さゆえに、言葉という形に変えてふんわりと伝えたほうが、心の深いところを打つことがある。直情的にも、論理的にもなりきれない胸のうちを、口から曝け出してしまったほうが、楽しいんだろうなきっと。

小江戸と称されるその街は、今も昔も小綺麗で優しさを感ずる街。住む街の環境が人の心に影響を及ぼすことは往々にしてある。確実にある。生まれ落ちる場所、育つ場所はそれこそ運命で成り行き。大人になっても様々な理由から今、自分が存在する町から離れられない時々も過ぎた。離れられる時が来て改めて今住んでいる町に住み続ける理由を自分に問うと、その答えは無い。住み続ける理由は無いと気づく。ぼくはイメージとしての町よりも「街」、或いは「村」が好きだ。海と隣り合わせにいたので、山の遠景側見えたり自然と隣り合わせの地形学的高度のある内陸地に惹かれることもある。
80歳を超えてのローリングストーンズを聴いてもかつてのような熱いものは伝わってこない。ビートルズが新曲を発表したかと言ってもビートルズフリークには悪いがなにも伝わらなかった。車の中や移動手段の中で選択するバックグラウンド候補の中に無い。これはきっと哀しきことなのかもしれない。

その当時、関わった自分の親と同じ世代か少し下の世代の方々。もうその一部の方々は鬼籍にいると思うが、その街を歩いているとその方々がその当時の姿、形でふとあらわれそうな錯覚に陥る。今後、その街を貫く国道は走ることはあるにせよ、その街の内面まで歩く事はこの先もうないのだなと考えながらぼくはその街を背にした。

読まれることのない手紙も、届くことのないメッセージも、走り書きのメモも、こんな風に夜な夜な書く文章も。自身の語彙という、必然的な言葉の体系、歪な形をした箪笥の中身が、それを成している。その事実だけで僕は満たされてしまう。

・・・足るを知るときの静かさや生きていくうえで避けることのできない不安を、不佞を、不可逆を見届けていたいと思う。こんな次代だから尚更。いつもいつも知らない街ばかりを歩くその頻度も減ずるにある中。時としてかつて暮らした街を訪ね懐古的になって見たくなったりする。事実だったことを事実だったとして確認してみたくなる。
懐古よりも回顧が適切か。
懐古にはまだ早いか。

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