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鍵と鍵穴。

驚いたことに、今日が2023年最後の日ということに気付けば、なっていた。
私を語るには、いや、私を通して"それ"が語られるのにはまだまだ時間が足りていないように思われるし、一方でもう十二分とも言えた。ある方面で既にそれは満たされているし、安住の家を求めて外に駆り出していたのだとしたら、既にあなたはその家の中、それも火のついた暖炉の前でとっくに暖かく寛いでもいた。


...年の瀬は忘年会と称して、様々な人達と会うことが出来る。(もっと正確に言うのであれば、会い易い、だけだ。1年中いつでも会えるのだから、その気に"さえ"なれば。)
初めて(物質的に)出逢う人、これまで出逢ってきた人(それは邂逅、時には近い再会、或いは日常的な旧交)と、それはよく見慣れた場所で馴染み良く会うこともあれば、一方で未だかつて足を踏み入れたことのない未開の地においてよそよそしく会うこともある。
しかしながら、それはある一定の地点までのラベル分けに過ぎず、本質的には特に意味を持たないことだ。皆全て既に会っているとも言えるし、誰一人として出会う者などそこにはいないとも言える。これは言葉上での遊びに過ぎず、ちょうど終着点の無い子どものおままごとの遊戯のようなものだ。(されど目的を持たないからこそ尊くもある。それは純粋で、それでいて、きわめて真剣だ。)



ここでは旧交についての話に留めておこう。
1人の人物は私(或いは私達)を通して語られ、そして私はあなた(或いはあなた達)を通して語られる。
私について語られることは(私にとっても)全面的にこびり付いた十八番のような記憶もあれば、奥底に沈澱していて自分の力だけでは浮上させることの難しい沈没船のような記憶、そしてきわめてもう思い出すことが限りなく不可能に近い記憶まで、本当に様々だ。
あることは紛れもない真実で、あることは脚色された虚構かもしれない。どうであれ、そのどちらもがスポットライトとして薄らと全体像を照らし、他方ではただ一点確信的な細部を力強く照らす。

それらは2023年では到底暴かれ尽くされる事はなくて、私はまたこうして2024年(そして2025年、2026年...と有限的な永遠)に期待する。
翻って歴史を一つの円として捉えた時、私(と思っている個人)は疾っくの疾うに既に暴かれているのだけれども。

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