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Deep神戸・兵庫津

神戸は国際港湾都市というイメージがありますね。
ところが、神戸が国際港湾都市であったのは
遥か昔からなのです。
今は同じ神戸市ですが、江戸時代は神戸村は小さな寒村でしかなく、その西の兵庫津は長い歴史があり、発展していました。そんなDEEPな神戸である兵庫津をご紹介します。

港湾都市神戸の歴史は奈良時代に遡ります。
僧・行基は民衆に布教すると同時に、道路や新田開発の土木事業に取り組みました。しかし朝廷から異端として弾圧され、行基は社会事業集団「行基集団」(1,000余名)を作って対抗しました。やがて民衆の支持を受けて、朝廷もそれを認め、聖武天皇は大仏造立を行基に任せました。

行基は、大仏造立のために瀬戸内海航路を整備し、浪速津(なみはやのつ・大阪の港)から大輪田泊(おおわだのとまり)までを一回の航路と定め港を整備しました。(741年)
つまり奈良時代以前から瀬戸内海の重要な港でしたが、さらに整備され、正式な航路に定められました。
ここで「津」とは大型船が着岸できる目的港で、「泊」は停泊地という意味です。
大輪田泊はJR神戸駅の南から中央卸売市場、兵庫津ミュージアムがある地域にありました。

平安時代には浪速津に川からの土砂が堆積して港の機能が低下し、一方平安遷都で京都から大輪田泊への陸上交通が便利になりました。平清盛は、京都の貴族から距離を置こうと福原遷都を計画し、大輪田泊の沖合に人工島・経ヶ島を建設して改修し、港の安全性を高め、日宋貿易に力を入れました。
ポートアイランドなどの神戸の人工島造営には、長い歴史があったことになりますね。

遣唐使で唐に行き、仏教を学んで帰国した最澄(伝教法師)は、兵庫津に能福寺を創建し、帰国後日本で最初の説法をしました。(805年)
当時の最先端の文化を学んだ最澄が、国内に持ち帰った知識を最初に説いたのが大輪田泊という訳です。
現在この寺には兵庫大仏(2代目)がおられます。

兵庫大仏

また、平清盛の墓である平相國廟があります。

平相國廟

長年平清盛の墓と考えられていた清盛塚は、清盛の供養塔でした。阪神淡路大震災で、下部の五段目から上が倒壊しました。上部の石が欠けているのはそのためです。

「平家物語」によりますと、”経ヶ島築造は暴風雨と大波で難航し、「竜神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよ」との占いが出ましたが、清盛は人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから「経の嶋」と名付けられた”とあります。
一方、讃州香川城主大井民部の嫡子・松王丸(17歳)が30人の身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出て、経石と松王丸を海に沈めて島は成ったと、「摂津名所図会」には記載されています。
来迎寺(築島寺)には松王丸の供養塔があります。

松王丸の供養塔

兵庫津ミュージアムには経ヶ島で使われた杭片が展示されています。

経ヶ島の杭片

鎌倉時代になると、「大輪田泊」は「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれ(泊から津に格上げされています)、港町が形成され、水陸両面での交通の要衝になりました。

室町時代、足利義満は日明貿易に力を入れ、兵庫津を拠点として大成功し、その巨利で金閣寺をはじめとする華やかな室町文化を支えました。中国から兵庫津を経由して京都に大量のモノと文化が流入したのです。

応仁の乱で焼失した兵庫は、戦国時代末期に復活し、江戸時代には国内航路の要港として繁栄しました。北前船の発着港として、北海道から運ばれた昆布は大阪で加工され、灘の酒は夏を超えても美味い「下り酒」として江戸に運ばれました。
北前船で大成功した高田屋嘉兵衛が海上交通安全を祈って献上した石灯篭が、鎮守稲荷神社にあります。

江戸時代中期、兵庫津の人口は2万人を超え、その中心地に幕府の布達等を掲示する高札場があり、俗に「札場の辻」と呼ばれていました。

札場の辻跡

このような歴史を背景に、幕末(1858年)に日米修好通商条約が締結され、函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港を開港することになりましたが、京都から近いことを理由とする朝廷の反対により、横浜港から9年遅れの1968年1月1日に兵庫港(実際は神戸港)が開港されました。

その2日後、「王政復古の大号令」が発せられ、2月2日に兵庫奉行が江戸に逃亡、2日後に「神戸事件」が発生しました。
戊辰戦争で、徳川側の尼崎藩を牽制するために明治政府から西宮警備の命を受けた備前藩士の行列が三宮神社付近に差し掛かった際、フランス水兵2名が行列を横切ろうとして、第3砲兵隊長滝善三郎が槍で制止し、水兵は軽傷を負い拳銃を持ち出して銃撃戦になり、さらに神戸港開港を祝うため集結していた諸外国艦隊(英仏米)が神戸中心部を占拠しました。
諸外国の要求を受け入れ、2月9日能福寺で滝善三郎は諸外国公使の前で切腹させられました。
「瀧善三郎正信碑」と切腹の様子を描いた絵が能福寺にあります。

さて、ここからは兵庫津の珍しいスポットをご紹介します。
まずは、日本一古いビリケンさんです。
アメリカに彫刻家が神の姿を夢想して制作したビリケンさんが世界的に流行し、大正初期に神戸元町の洋食屋さんが本物を真似たジャパン・ビリケンを作らせて店頭に飾って大人気になりました。
しかしあまりの人だかりで商売にならないと松尾稲荷神社に奉納されました。
松尾稲荷は、兵庫津の商売人に親しまれた商売繁盛と衣食住の神様で、恋愛成就のお稲荷さんとしても有名です。

松尾稲荷神社

ジャパン・ビリケンさんは、米俵に座り、背に大判、握手に打ち出の小槌を持った和洋折衷のお姿です。

ビリケンさん

兵庫津は江戸時代は岡方・北浜・南浜に別れ、それぞれの連合自治会である惣の会所がありました。
昭和2年に建てられた旧岡方倶楽部です。
神戸大空襲や阪神淡路大震災を乗り越えて、登録有形文化財に指定されました。

旧岡方倶楽部
旧岡方倶楽部内部

兵庫津は、開港された神戸港にやがて合併され、その名は消えました。
しかし、すでに発展していた兵庫津に居留地を作る場所もなく、東は旧生田川(現フラワ―通り)・西は宇治川に囲まれた地域を外国人も住める内外人雑居地として定め、隣は外国人という環境が生まれました。

多くの人が認識される神戸のイメージは、江戸時代末期の開港以来の歴史によるものですが、その前にもっと長い国際港湾都市の歴史があったことも知っていただければ幸いです。







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