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短編小説『遼之介は..。理沙、マイ・ラブ』

心地よい光に包まれて目が覚めた。どんな夢を見ていたのか、まったく思い出せなかったが、とにかくその夢のなかでは、たとえようもないほどとても幸せな気分だった。

「えっ!遼ちゃん?」

「ああ、おはよう、理沙」

「えっ!どういうこと?」

理沙はしきりに目をこすって、何度も俺を見返している。

「なに、理沙?いったいどうしたんだよ」

「遼ちゃん、もとの姿に戻ってる......」

「?......」

理沙にそういわれて、視線を自分のお腹に向けると、黒い脚が横腹から伸びていなかった。懐かしい肌色のからだがそこにあった。

「俺......もとに戻ってる?」

久しぶりの人間のからだだった。
不思議なもので、ゴキから人間の姿に戻ったものの、なんか違和感しかない。
グーチョキパー、両手を閉じたり広げたりする。

「おお、両手だ。棘がついた前脚じゃない」

まさか、こんな日が来るとは夢にも思わなかった。俺は死ぬまで一生サツマゴキブリのままだと、ある意味覚悟していたからだ。

そんな感動に浸っていると、すごくお腹がすいてきた。まだ、驚きを隠せない理沙を尻目に、俺は冷蔵庫のなかを物色する。

「おいおい理沙、どれもこれも消費期限切れのお惣菜ばかりじゃないか」

振り返って理沙に文句をいう。理沙はまだ信じられないとばかりに、俺からすこし距離を取って、確認するかのように、俺のからだを上から下まで見つめている。

「おまえ、こんなものばかり俺に食わせていたのか?」

俺は呆れながら、尚も冷蔵庫のなかを物色する。なにもない。

「おまえほんとにホテル勤めの社会人かよ。ひどいもんだ」

俺が怒ったようにそういったところで、理沙はやっと我に返った。

「遼ちゃんだよね?遼ちゃんだ!」

そういうと、理沙は勢いよく抱きついてきた。
ムニュ、ボヨ〜ン。大きすぎる理沙の胸が俺のからだに密着する。

「おお!......」

その瞬間、俺は忘れていた人間の雄としての本能を取り戻していた。食欲もそうだが、あっちの欲も満たしたい。けれど、今はとりあえず空腹を満たす方が先だ。

「理沙、家になにもないから、外に飯食いに行かないか?」

「う......ん。けど、まず服を着た方がいいと思う」

理沙は嬉しそうに、俺の股間にちらっと目をやった。
そこで初めて、俺は自分が裸だということに気がついた。



「久しぶりだね。遼ちゃんとふたりでお出かけなんて」

恋人つなぎでゆっくりと歩く。ただこうしていることが、なにものにも代えがたい幸せのように感じられる。

「この手って、もともとはあのトゲトゲした前脚なんだよね」

理沙は、突然つないでいた手を離すと、自分の左の手のひらをなにかを確かめるように見つめている。

「なんなんだよ?」

「なんか、ベタベタしているような......」

「なんだよ。この人間の手がもともとの俺の手だろうが?」

「そうなんだけど......」

理沙は俺のことばに納得していないようだった。



俺は目のまえに並べられた料理を見つめていた。

「遼ちゃん、どうしたの?食べなよ」

「ああ......」

俺はゴキになっていたあいだ、食事はもっぱら、そのまま齧りつくか、前脚で千切ってすませていた。だから、箸やフォークを使っての食事は、本当に久しぶりで躊躇していたのだ。

「はい、遼ちゃん。前脚、じゃなくて手はきれいにしないとね」
理沙はニコッと笑っておしぼりを広げて渡してくれた。

「ねえ、でも手掴みとかはやめてよね」
そういって、うすら笑いを浮かべている。

「するわけないだろ」

俺は理沙とのこんなやり取りを繰り返しながら、久しぶりの人間さまの食事にありついた。



「遼ちゃん。まだ時間早いし、どこか行く?」
ファミレスから出たところで、理沙が嬉しそうに俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。

「どっかって、なんで?飯も食ったし、家に帰ろうぜ」

「だって、ここ何ヶ月か、遼ちゃんがゴキになってたあいだ、ふたりでお出かけしたことなかったでしょ」

「まあ、そうだな。なんか、ごめん」

「だから、今日は思いっきり遊ぼうよ」

「けど、おまえお金は大丈夫なのか?まだ、ニ日だぞ、十日の給料日まであと一週間以上もあるんだぞ。いつも月初めは、眉間にしわを寄せて、お金どうしよう......なんてぼやいてるじゃん」

「まあ、確かにそうだけど。今日はいいよ、遼ちゃんが人間の姿に戻った特別な日だし」

「じゃあ、俺、このまえおまえが投稿サイトの友だちから勧められてた映画。科学者がさ、ハエ男になっちゃうやつ観たいんだけど」

「えーっ!もっとロマンティックな映画観たいんだけど。確かに、すぐそこの映画館でリバイバル上映してるけどさ」

「理沙、お願い!これこの通り」
俺はハエのように顔のまえで手を擦り合わせた。

「なんでそんなにそれ観たいの?」

「ハエ人間になった男の物語だろ。だって俺、ゴキになってたんだよ。なんか、親近感が湧くっていうか、なんていうか......」

「わかったよ。いいよ、今日は遼ちゃんに合わせるよ」

「ありがとう、理沙」



「遼ちゃん、大丈夫。ちょっと恥ずかしいんだけど。ここまでお見逃しなくって、薦めてくれたまさみがいってたエンドロールも終わって、明かりがついてるよ。先に出て行った人たちみんな、号泣している遼ちゃんを見てクスクス笑ってたよ。なにがそんなに感動的だったの?」

俺は、涙が止まらなかった。俺の人生でこんなに声を上げて泣いたことは今までに一度もなかったように思える。
ハエ男が自分の眉間に銃を突きつけて、彼女に撃ってくれ、殺してくれ、と暗く沈んだ瞳で見つめていたシーンなんかが、自分の境遇とオーバーラップしていたからだ。

「あ、あの......ハエお...とこ...が......うぐっ...」

「もう、わかったから。とりあえず、外に出ようか?」

理沙は、いつまでも席を立とうとしない俺の手を引くと、通路でも嗚咽の止まらない俺の背中に手のひらを優しく添えて、映画館の外へ連れ出した。

「落ち着いた?遼ちゃん」

「ああ......」

「ちょっとわたしびっくりしちゃった」

「なにが?」

「だって、遼ちゃんって、どんな映画観てもさ、なんか斜に構えてるっていうか。『まあ、あんなもんだな』なんていって、いつも小馬鹿にしてたでしょ。泣いたことなんて一度もなかったじゃん。それどころか、わたしが感動して泣いてたら、『馬鹿じゃないの?あんなんで泣くなんて』ていって、冷めた目で見てたでしょ?あーっ、思い出したらすごーく腹が立ってきた」

そういうと理沙は俺の二の腕を思いっきりつねった。

「理沙、なにすんだよ。痛いよ!」

理沙は積年の恨みを晴らしたかのように、妙にスッキリした顔をしている。

「遼ちゃん、次どこか行きたいところある?」
理沙は話を逸らすように、俺の顔を覗き込んだ。

俺の二の腕は蚊に食われたみたいに赤く腫れ上がっていた。かなり、本気でつねったんだな。理沙がたまに俺に食らわすデコピンも痛いが、こっちの方が比べものにならないくらい痛い。

「ねえ、遼ちゃんってば。どこ行く?」

「うん、そうだな」

俺がどこにしようか悩んでいると、お化け屋敷で有名な遊園地の看板が視界に入ってきた。
出不精の俺が、どうしてもと理沙にねだられて、初めてデートした思い出の場所だ。

「理沙、あそこはどうだ」

「あっ!懐かしいね。遼ちゃん、覚えてる?わたしたちが外で初めてデートした場所だよね」

「えっ!そうだっけ」

「えーっ、覚えてないの?ひどいよ」

「ごめん」

本当はちゃんと覚えているのに。こんなところが俺は捻くれている。好きな文学のせいではないと思うけど。

すこし並んでお目当てのお化け屋敷に入る。
前に来たとき、理沙はキャーキャーいいながら俺に抱きついてきた。そのとき俺の腕にあたった理沙の豊満な胸の感触が俺の男を刺激して、その夜、俺と理沙は初めて結ばれたんだった。

理沙は俺の腕にしがみついて、薄暗闇のなかを目を凝らしながら、キョロキョロと辺りを注意深く見回している。理沙がギャーッとかキャーッとかいって、俺に飛びつく度にあたる理沙のはち切れんばかりの胸の感触を、これこれっ!などと懐かしく思い出していると、お化け屋敷もクライマックスに近づいた。

「グヘヘへへっ!」

そして、突然おどろおどろしいメークを施した、お化けゾンビたちが俺たちの前に現れた。理沙は俺の腕にしがみついたまま、「キャーッ」と叫んでその場にへたり込んでいる。
俺は、そいつらが出て来た瞬間だけはビクッと反応したが、もともと俺は怖がりではない。
これは初デートのとき、理沙のなかでの俺のイケてるポイントを高めたらしい。
俺はそいつらの顔をただ見つめていた。すると、突然そいつらは、口々に「ギャーッ!化け物だーっ」そういいながら走り去って行った。俺はなんのことをいっているのか全然わからず、「大丈夫か、理沙?」そういって、顔を伏せて床にへたり込んでいた理沙を引き上げると、表に出た。
お化け屋敷の出口では、まるで化け物でも見るみたいに、俺の顔をまじまじと見つめる、さっきのやつらがいた。

「おまえも見たよな?あれって絶対ゴキブリだったよな?」

「俺も見た。巨大なゴキだった。あいつのはずだけど。一緒にいる女の子が同じだから、間違いないと思うけど」

などと、お化けメークをした数人のスタッフたちが興奮したようにいい合いながら、俺をじっと見つめていた。
やつらには、俺の姿が、昨日までのゴキの姿に見えたってことか。

理沙は「あーっ、怖かった」などといいながらも満足しているようだった。
理沙もきっと初デートのときのこの後の出来事を思い出しているのだろう。

夕食を近所のラーメン屋ですませて、コンビニに寄って帰る途中、理沙がすこし困った顔でいいだした。

「映画と遊園地は今日だけ特別だからいいとしても、やっぱり、人間の姿だと遼ちゃんよく食べるね。今月、お金足りるかな......」

「ごめん、理沙。つい調子に乗っちゃって」

「ゴキの遼ちゃんだと、食費はほとんどかからなかったからなあ。家に帰ったらもとのゴキの姿に戻ろっか、遼ちゃん」

悪戯っぽい笑みを浮かべて、理沙は怖しいことを、さらりといって退けた。

「そんな風に、変身ヒーローみたいに簡単にゴキになったり、人間になったりできるかよ」

「ヒーローじゃないけどね。みんなの嫌われ者の、ゴキだし」

「ゴキになんか二度と戻りたくないよ。絶対嫌だ」

「ずーっとこのままなのかな?」

「どういう意味だよ?」

「また、ヒモ同然の暮らしに戻るの?」

「ヒモって?......おまえ俺のことをそんな風に思ってたのか?」

「だって、そうじゃん。違う?」

俺は返すことばもなかった。

「仕事は探すから。ちゃんとするから」

「じゃあ、もう小説家になる夢はあきらめるんだね」

「そ、それは......」

正直いって、働くとはいったものの、自信はない。だって、昨日までゴキだったんだもん。いつまた突然ゴキに戻るか分かんないし。



「あー、久しぶりのお出かけ、本当に楽しかったぁ」

家に帰ると、理沙はそういいながら俺にからだをあずけてきた。
唇をそっと理沙の唇に近づける。

「ちょっと待って遼ちゃん。先にお風呂に入ってよ」

「えっ!なんで?理沙がゴキの俺を、毎日じゃないけど、脂が抜けてパサパサになるまで洗ってくれてたじゃん。昨日もやってくれたよね?」

「......とにかく、お願いだから、からだ洗ってきてよ」

理沙は風呂場に追い立てるように、突き出した両手で俺のからだを後ろへ押した。


人間の姿で風呂に入るのは本当に久しぶりだ。極楽とは、まさにこのことだ。自分で自分のからだを洗えることの幸せよ。

「遼ちゃんいる?」

「ああ、なんだ理沙?」

ドアの向こうから不安げな声がした。

「よかった。もしかしたら、と思って」

さっき、家に帰る途中で理沙は、「食費がかかるから家に帰ったらゴキの姿に戻ったら」なんて、怖しいことをいっていたが、本心はきっと違うんだろう。

「まあ、もしまた俺が突然ゴキの姿に戻ったとしても、俺はどこにも行かないよ。ずーっと理沙と一緒だ」

「そうなの?......」

すこし間があって、嬉しいのか悲しいのかよくわからない返事が返ってきた。

「はい、遼ちゃん」

風呂から上がって、リビングのソファに座った俺の目のまえのテーブルには、俺の好きな銘柄の500mlの缶ビールが一本と、皿に盛られたポテトチップスとバターピーナッツが置かれていた。俺の大の好物だ。

「グラスは要らないよね?」

俺はビールの泡があまり好きじゃない。だから、缶からそのまま飲む。ゴキになってしばらくして、理沙が飲んでみる?とビールを小皿に入れて出してくれたことがあった。
そのビールの美味しかったこと。人間のときより数倍うまく感じた。けれど、飲む量なんてたかが知れている。一本の缶ビールをかなりの日数をかけて飲み続けたあと、ある日、「まずっ!いったいこれいつのやつだよ」と俺がいった一言がまずかった。それ以来一度も出してもらえなかった。

理沙から毎日もらう昼飯代を含んだ五百円のお小遣いで、俺がたまにこの三種の組み合わせを買って食べた形跡をみつけた理沙は、いつも小言をいっていた。

「もう、こんなもの買って。ちゃんとしたご飯を食べないと、からだ壊すよ。小説家だって、からだが資本なんだから、いつかそうなれたときのために、今のうちから健康的な生活を送る習慣をつけてないと。遼ちゃんは煙草はもう吸わないと思うから、あとは適度の運動をすることと、食べるものにはいつも気をつけておかないとダメだからね。わかった?」
そういつも俺のからだを気遣ってくれていた。

俺は、昔はベビースモーカーだった。
理沙のところに移り住んでからは、煙草を吸わない理沙が、部屋が臭くなるからベランダで吸ってというものだから、真冬の寒い日でもそうしていた。
理沙が毎日くれるお小遣いでは全然足りないので、必然的に煙草はやめざるを得なかったのだ。

昨日までゴキだった俺は、たまに理沙に泣きついて買ってもらったポテトチップスの塩は、理沙に取り除いてもらって食べていた。俺がゴキになってから初めてポテトチップスを食べたときのことだ。うまいうまいとすごい勢いで食べたあと、脱水症状みたいになって、水をガブ飲みしたことがある。
そのとき理沙は、水を飲みながら、チョロチョロとオシッコをしている俺を見て、「面白ーい。遼ちゃんって器用だね。上から飲みながら、下から出すなんて。まるでじょうろみたい」などと大爆笑しやがった。
ビール、ポテトチップス、ミックスナッツじゃなくて、バターピーナッツ。この取り合わせが最高だ。自分でも思うが、なんと安上がりなこと。

「遼ちゃんってこんなに逞しかったっけ?」

「なんか変わってるの、俺?」

「なんか以前よりからだが絞れて、胸板がかなり厚くなったような気がする」

「まあ絶えず、素早く動いていたからな」

理沙は俺の胸を指先で確かめるようになぞると、キスを求めてきた。

「遼ちゃん、絶対なかに出さないでね」

「なんで?」

「わたしゴキのお母さんになるなんて、嫌だからね」

「おい、勘弁してくれよ。そんなことあるわけないだろ」

「だって、わかんないじゃん」

「じゃあ、やめとくか?」

まあ、いわれてみれば、ありえないことではない。

「馬鹿、早くきて」

久しぶりの理沙とのエッチは、これ以上の快楽はこの世のなかにはない、といい切れるほどのものだった。
からだの快感もそうだが、それ以上に心が満たされていくのがわかった。
好きな女と、心もからだも強く結ばれていく感覚は、たとえようもないほどとても幸せな気分だった。

その夜の俺は過去一盛り上がり、部屋の天井を突き破り、雲を突き抜け、大気圏を飛び出し、太陽系をグルリとひとまわりして帰ってきたみたいに、かなり困難な仕事を無事終えた達成感と、心地よい疲れと、心から震えるほどの感動で満たされていた。



「遼ちゃん、遼ちゃん。どこ?」

理沙が俺を呼ぶ声で目が覚めた。

「おはよう、理沙。ここにいるけど」

「どこ?どこにいるの、遼ちゃん」

ガサっと音がして光が差し込むと、そこには、驚いたように俺を見つめる理沙の顔があった。

「遼ちゃんが......ゴキに戻ってる!」

俺は知らないうちにゴキの姿に戻って、いつものように俺のねぐら、遼ちゃんハウスで寝ていたのだ。
たった一日の人間の姿だった。

「よかった......」

「よかったって、どういう意味だよ?」

「あっ!......あのね。遼ちゃんがいてくれてよかったってこと」

理沙は一瞬しまった、という顔を見せた。

「仕事行かなきゃ。じゃあ、遼ちゃん、行ってきまーす」

理沙は話をはぐらかすようにそういうと、バタバタと慌てて部屋を出て行った。

「なんだよ、よかったって......」

そういいながらも、俺自身、またゴキになってしまって残念だ。というより、内心ホッとしていた。

人間ってやつは、従来通りの生活、やり方に愛着を覚えるのが普通だ。
死ぬまで成長しようなんて生き方ができるやつなんて、そうそういやしない。

もっとも俺はゴキだから、なんの成長ができるのか、自分でもよくわからないが、とにかくあの幕末の英雄みたいに、命が尽きるまで、前のめりに生きていきたい。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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