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短編小説 『悪戯な天使』


「おじさん、そんなところで何やってんの?」

「?......」

突然背後から声をかけられた中年男は、驚いたように僕を振り向いた。その左手はしっかりとビルの屋上の手すりを握りしめている。

「き、君は誰だ?」

「ああ、僕? 僕はただの通りすがりの天使です」

自分でいって首を捻る。ビルの屋上をただ通り過ぎることなんか絶対ないな。しかも、天使が。そう思うとすこしおかしくなった。

「天使? どう見ても君は女子高生じゃないか?」

「ああ、これね。僕、この格好、結構気に入ってるんだ。この黒髪ショートもね。本来の僕の姿は、クルクルっとカールした背中まである金髪ロングだし、いつも真っ白なワンピースを着ているからね。絵のなかの天使みたいにあんなに子どもじゃないし、露出はそんなに多くない」

「馬鹿な冗談はやめてくれ。どこかへ行ってくれよ、お願いだから」

中年男は懇願するようにいった。  

まあ、いくらこの僕が可愛いといっても、この死にたがっているいまの中年男には、僕との会話を楽しむ余裕などないのは当然のことだ。
下心丸出しのどスケベ親父などは、僕がちょっと声をかけただけで、涎を垂らして、嬉しそうに話に乗ってくるし。なかには、僕とイケナイことをしている妄想を巡らすしょうもない男もいるし。

「嫌だよ。どこにも行かない。あーっ、その目は僕が本物の天使かどうか疑ってるな」

セーラー服の上着を脱いで、ブラジャー姿を披露する。人間の性別でいえば、僕は女であり、男でもある。だからか、胸は小さいどころか、ぺったんこだ。それが嫌いで、僕はこのお気に入りのセーラー服姿のときは、いつも見栄を張って、Fカップのブラジャーをつけている。
見た目にはかなり大きい。もちろん、なかにはかなり弾力のあるブラパッドを仕込んである。
背中に力を入れて、羽を思いっきり広げて見せる。白く光り輝く正真正銘の天使の翼だ。どうだ、参ったか!

「?......」

中年男は驚いて言葉を失った。その拍子に、掴んでいた手すりを離してしまった。
おい、勘弁してくれよ。

その瞬間、颯爽と空中を滑空し、ビルの屋上から落ちていく中年男を空中で抱きとめた僕は、えいっとひと羽ばたきして、羽根が舞い落ちるように、中年男を屋上にふわりと降ろした。

「......」

落下した恐怖のせいなのか、それとも本物の天使に出会った驚きのせいなのか、中年男は僕を指さして、目を白黒、口をパクパクさせている。
まるで、漫画のワンシーンみたいだ。

「どう? これで僕が本物の天使だってこと信じてくれた?」

人間って、本当に疑り深い。
僕が突然現れて、天使でーす、こんにちは! なんて話しかけても、こいつ大丈夫か? みたいな目で見てくるし。
すぐに、僕が天使である証拠を見せろっていう。

ちなみに、僕の頭の上には天使の輪っかは乗っていない。それには理由があるのだけれど、いまはまだ話したくない。

「おじさんさ、こんなところから飛び降りたらどんな悲惨なことになるか知ってる?」

「悲惨?」

「色んな人々に迷惑をかけるんだよ。まず、下を通りかかった人。運悪く、その人におじさんがぶつかったらどうするんだよ? その人も死んじゃうかもしれないし、間違いなく大怪我はするだろう?」

中年男は、僕の話に耳を傾け始めた。

僕は背中の羽を引っ込めて上着を着る。このセーラー服のスカーフを可愛く結ぶのが、手先の不器用な僕にはひと苦労だ。
そして僕は中年男のまえにしゃがむと、話を続けた。

「それから、道路に叩きつけられて、ぐちゃぐちゃになったおじさんのからだを目撃した人や、おじさんがビルから落下していくその瞬間を目撃した人たち。彼らがその後何年も何十年も、その光景をトラウマとして抱えて生きていかなければならなくなったら?」

中年男はそういわれて、それを想像したのだろう。目を伏せて力なくうつむいている。

「おじさんにも家族はいるんだろ? おじさんの奥さんや子どもたちは、死ぬまで一生、おじさんがどんな風に死んでいったのかを忘れずに生きていくんだよ。それがどれだけつらいことかわかるかい? 自分にできることは何かなかったのか、と自問自答しながら、どうしようもない後悔の念を抱えてね」

僕は天使だから、人智を超えた色んな力を持っている。人が考えていることを見通すことなんか朝飯前のことだ。
そういえば朝ごはん食べてないや、って、天使だから食べ物は口にしない。別に食べてもいいんだけど、食べた後は、もちろん人間と同じように食べたものが下から出る。
ただ、消化されないので、色んな形や色が混ざった天使のそんなものなんて、誰が想像できる?

中年男はそれから、ときには嗚咽しながら、自分がなぜこんなことをしようとしたのか、話し始めた。
最初は言葉も途切れ途切れだったけれど、そのときの、悔しさや、怒りや、どうしようもない感情などが込み上げてきてからは、一気に捲し立てるようにすべての思いを僕に吐き出した。

「つらかったね、おじさん」

「ああ......」

中年男は、すっかり気が晴れたように笑みを浮かべた。

僕は立ち上がると手すりに手をかけて、「おじさん、ちょっとこっちに来て」と手招きして、下の鋪道を指さした。

「あれ、見えるかな?」

中年男は尻込みして、まったく手すりに近づこうとしない。

「さっきまでここに掴まってたんでしょ? 怖くないから」

そういわれて、中年男は恐る恐る近づくと、僕にいわれるまま下を覗き込んだ。

「あの、黒い人影みたいなもの。見える?」

「......?」

「見えたみたいだね。あれね、人間がいうところの悪魔だよ。死神じゃない」

「悪魔?......」

「そう、悪魔。おじさんが死んだらその魂を味わい尽くそうと待ち構えていたのさ」

「俺の魂を食べる?」

「そう。やつらにとっては、人間の魂ほどのご馳走は他にないからね」

中年男は、その黒い影を食い入るように見つめている。

「僕ら天使は、事故にしろ、病気にしろ、死が訪れるまで、生きる意思を持ち続けて死んだ人だけしか迎えに来てあげられないんだ。天使が迎えに来られない人たちは、自分ひとりの力で僕たちの待つ世界にたどり着かなくてはならない。天使たちに守られることのない、そういう人たちの魂の多くは、道の途中で悪魔たちに食べられてしまう」

中年男は目を凝らしてその黒い影を見つめた。そして、手すりから後退ると、その場にへたり込んだ。

「危なかったね。悪魔に魂を食べられると、ありとあらゆる地獄の苦しみを何度も何度も繰り返して味わうことになる。何年も何十年も、とてもとても長い時間」

太陽を背にした僕を見上げた中年男の顔からは、さっきまで滲み出ていた悲壮感はすっかり消え去っていた。

もうこれで大丈夫だろう。
ビルの下の鋪道にさっきまでいた悪魔の姿もすっかり消え去っている。

「良いことも悪いことも、人生には繰り返し訪れるもんだからさ。おじさんが寿命を全うしたときには、僕ら天使が必ず迎えに来るから、それまで頑張って生きてよ」

僕はそう約束し、微笑みを浮かべながら、優しげな眼差しで僕の背中を見送る、その中年男を後にした。

もちろんビルの屋上から飛び去ったりなんかしない。
ちゃんと階段とエレベーターを使って一階に降りる。

エレベーターに乗り込む。おっと、スカートの後ろの方がめくれ上がってパンツが丸見えだった。僕ってこの格好でずーっと話してたの......恥ずかしーっ! なんてお間抜けな。

そうか、さっき僕の背中を見送っていたあの中年男の優しげな眼差しは、僕のこのパンツ丸出しになったお尻を見ていたのか。

あの中年男がさっき顔に浮かべていたのは、微笑みではなくて、僕のこのお間抜けな姿を見てのうすら笑いだったんだ。

そう思うと、恥ずかしさのあまり、顔が真っ赤になっていく自分におろおろするばかりだった。





「ねえ、お姉さん。何やってんの?」

ユニットバスの浴槽のなかで、手首に剃刀を走らせたばかりの裸の女性は、僕から声をかけられて、辺りをキョロキョロと見回している。

「お姉さん、ここだよ」

天井を見上げて、裸の女性は言葉を失った。
そして、そこに張り付いている僕の姿を呆然と見つめている。
僕はテヘペロッ、と舌先で唇の端を舐めて見せる。僕のなかでは可愛い仕草のひとつだ。

「よっ、と!」

天井から軽やかに飛び降りた僕を、裸の女性は、目を丸くしてただ黙って見つめている。

「あららーっ! いっぱい出てるね、血。心臓の鼓動に合わせて、トクントクンって波打って出ているのわかる? すごーく、きれい」

裸の女性はそういわれて、右手でその左手首を隠した。

「あなた、なに? 誰なの? どこから入って来たの?」

「はいはい、ご説明させていただきます。僕は天使です」

僕はキリッとした真面目な顔で答える。

「天使? だってその格好は......」

僕を初めてみた誰もが表すお決まりのリアクションだ。

「まあ、見た目は超可愛い女子高生だよね」

そういってくれそうじゃないので、とりあえず自分でいってみる。

僕は上着を脱いで、天使の翼を見せてあげようと、ブラジャーだけになって......って、今日つけるの忘れてた。ぺったんこの胸が丸出しだ。恥ずかしー! この胸だけは人間にはみられたくなかったのに。なんで?......僕がぶつぶつひとりごとをいっていると、か細い声で裸の女性がいった。

「あの......何なんですか、あなたいったい、誰?」

「ちょっと待って」

背中に力を込める。真っ白な天使の翼が、かなり広めのユニットバスのなかに現れた。

「!......」

「正真正銘の天使です。これで信じてくれた?」

「ああ、そうなんだ。私を迎えに来てくれたんだ。ちょっと想像と違ったけど。ありがとう」

「ありがとうって......おいっ、話を聞けよっ!」

裸の女性は、安心したような顔で、うれしそうにうなずいている。

「あのねぇ、僕はお姉さんを迎えに来たんじゃないから。そもそもお姉さん、まだ死んでないし......」

「私を迎えに来たんじゃないの?」

裸の女性は、なぜ? と訴えかけるような目つきで僕を見つめている。

「うん、違う」

そこはきっぱりと突き放すように答える。

「じゃあ、なんでここにいるの?」

「まあ、ちょっと理由があってね」

さっきから、隅の方で気配を殺して隠れている黒い影を指さす。

「お姉さん、あれをよーく見て」

「どこ?」

裸の女性は僕の指し示す方向を目を凝らしてよく見ると、「きゃっ! 何あれ」と驚いて声を上げた。
そこには、人の形をした黒い影がユラユラとまるで蜃気楼のように揺らめいていた。

「あれは、悪魔だよ。お姉さんの魂を食べようと、いまかいまかと待っているんだ」

裸の女性は呆然と僕とその黒い影を交互に見返している。
突然の天使の出現の後は、今度は悪魔のお出ましだ。驚くのは当たり前だ。

「ま......た......お......」

その黒い影は、聞き取れないほどのか弱い声を出した。

「またお?......なに?」

「オオオオオオオーッ」

黒い影は雄叫びとも、唸り声ともつかない大声を出した。
そして、僕のすぐ前まで、ユラユラとその黒い影を揺らめかせながら近づくと、今度は、はっきりと話し出した。

「また、おまえかっ!」

「ああ、話せるんだね」

「なんで俺の邪魔ばかりする?」

「邪魔って?」

「俺が魂を食べるのを邪魔してるだろ? ここ何十回か」

「うん、そうだね。その通り」

「なんでなんだよ。なんで邪魔するんだ」

「うん、それにはちょっとした理由があってね......」

「俺は、腹が減って、腹が減って、もう死にそうなんだ」

「うん、それは大丈夫。だって君はもうすでに死んでいるから」

裸の女性は、天使の僕と悪魔の会話を、その場を動くこともできず、成り行きを見守るように静かに聴いている。

「とにかく、俺はその女の魂を喰らいたいんだ。邪魔をするな」

「そうはいかない」

「こうしてやる」

悪魔がそういうと、黒い影が風呂場のなかに満ちていった。
僕が引っ込めていた背中の翼を再び広げると、その眩い金色の光に押されるように黒い影は小さくなっていく。

「ああぁぁぁ......」

そして、その気配は完全に消え去った。
どうやら、悪魔はあきらめたようだ。

「おっと、忘れていた。お姉さん早く手当しないと死んじゃうよ」

その言葉に、裸の女性は思い出したように、パックリ開いた左手首の傷口を押さえ、あわててユニットバスを飛び出すと、バスタオルをからだに巻き付けた。

「見せて」

僕は彼女をリビングのソファに座らせ、その隣に腰かけ、バスタオルの下は裸の女性の左手首をそっと手に取り、手首の傷を指先で撫でる。

「......!」

パックリ開いていた傷口がすっかり塞がったのを見て、彼女は、僕の顔を驚いたように見た。
これも、僕の持っている力のひとつだ。
死んだ人を生き返らせるほどの力は持ってないけど、これくらいのことは朝飯前だ。
そういえば今日は夕飯も食べてないや。いや、僕は天使だから何も食べる必要はないんだけどね。

「これで、もう大丈夫」

「ありがとう......」

それから僕は、彼女の話を時々相槌を打ちながら聞いた。

話し方は理路整然としていて、かなりの頭の良さを感じさせた。なぜこれほどの女性がこんなことを? と不思議に思う。
人間って、こと恋愛に関しては、本来の自分を失くしてしまうことが往々にしてあるのはよく知っている。

すべてを話し終えた後の、彼女の顔からは、先ほどまでの絶望に似た焦燥感はもうどこにも見当たらなかった。
もう大丈夫だろう。

「お姉さんが寿命を全うしたときには、僕が必ず迎えに来るからさ」

彼女はコクンとうなづいた。

「あなたの名前は?」

「ごめん、それは教えられない。知られるとまずいことになるんだ」

「そうなんだ......」

バスタオルの下は裸の女性は、すこしだけ寂しそうにつぶやいた。

「じゃあ、僕はこれで」

僕は玄関を出るとエレベーターに乗り一階まで降りる。僕が外に出てマンションを見上げると、ベランダから小さく手を振る、コートを羽織った、バスタオルの下は裸の女性の姿があった。




「ほーれ、ほれほれっ!」

「危なっ!やめろよ!」

天井から吊るしたロープに首をかけ、小さな丸椅子の上に乗った、凶暴な顔をした男が思わず声を上げた。
僕がその椅子を左右に揺らしたからだ。

「あれっ? お手伝いしようと思って」

「ふざけんなっ! 死んだらどうすんだよ」

「だって、死ぬつもりじゃなかったの?」

そういわれて、凶暴な顔をした男は、そうだったと思い出したのだろう。

「確かに......」

僕を冷たい目で見ている。突然現れた僕にまったく驚くそぶりも見せない。

「お兄さん、驚かないの? 僕が誰だか知ってるの?」

「おまえ、どうせ死神かなんかだろう? おおかた、俺を迎えに来やがったんだろう?」

僕はこの男に少なからず興味を抱いた。突然目の前に現れたセーラー服姿の僕を見て、驚くどころか、そういい放ったからだ。

「お兄さん、どうしてそう思ったの?」

「いままでろくなことをやってこなかったからな。人様には迷惑かけっぱなしだし、ただひとり、俺を見捨てずにいてくれた年の離れた弟も、俺が殺したようなもんだ」

男はロープに手をかけて、プルプル震える丸椅子に、でっぷりとお腹の突き出た巨体を預けている。

「残念ながら、死神じゃないんだ。僕は彼らとはまったく真逆の存在、天使だから」

「おまえ、天使なのか。こんな俺を迎えに来てくれたのか?」

僕が天使だと教えると、なぜみんなこういうリアクションを取るのだろう?

「迎えに来たわけじゃないんだ」

僕は上着を脱ぎ始めた。いつものように、天使の翼を広げて、自分が正真正銘の天使だと証明するためだ。

今日は、色とりどりの花々の模様が刺繍された、Bカップのブラジャーだ。あんまり見栄を張るのも良くないなと思い直し、最近ではこのサイズをつけている。もちろん、ブラパッドもしっかりなかに仕込んでいる。さっき、つけているか、ちゃんと確かめた。だから、この前みたいなことは起こりようがない。あのときは、つけてなくて、焦ったのなんのって。見られたのが女性だったから、まだ救われたけど。
それでもぺったんこの胸を見られたのはかなりのショックだった。このブラジャーは僕の勝負下着だ。なんの勝負をするのか? って。別にいってみたかっただけだ。なんか、かっこいいじゃん。

「おい、なんで服なんか脱いでんだよ。この状況で、おかしいだろ?」

服を脱ぎだした僕を制するかのように、首にかかったロープに手をかけたまま、凶暴な顔をした男は眉をひそめている。

僕は人間の性格でいえば、どちらかというとA型気質だ。何事も、型通りに進めないと気がすまない質だ。

「悪いけど、しばらくの間付き合ってよ」

男の足元がふらついているのが多少気になるけど、すぐに終わるからまあいいか。

ピンクのブラジャーをつけた、白い肌の女子高生の背中に、突如現れた神々しいほどの真っ白な天使の翼。どうだ、びっくりしたか? と僕がドヤ顔で腕組みしていると、「なんか、間が抜けている」と凶暴な顔をした男の口からそんな意外な言葉が飛び出した。

「間が抜けているって?」

「下半身はスカート穿いてるだろ。色気もなんもあったもんじゃねえ」

あの......お言葉ですが、そういう意味で脱いだのではないので、と僕がぶつぶつひとりごとをいっていると、「下も脱いで見せろよ」と、凶暴な顔をした男は僕を急かすようにそんな驚きの言葉をいい放った。

なんだ、こいつ? そんなこと、首にロープをかけたままいうことか?
すこし怒りが込み上げてきた。天使でも怒るときは怒る。
ええ、わかりましたよ。そこまでいうのなら、この天使の美ボディを見せつけてあげようじゃありませんか。と僕はなかばやけくそ気味に勢いよくスカートを下ろした。

その瞬間、凶暴な顔をした男の視線は、僕の股間に釘付けになり、バツの悪そうな顔をして、すぐに顔を背けた。

?......しまった。ブラジャーは確認したのに、パンティは着けていなかった。
僕の股間には可愛らしいものがちょこんとぶら下がっている。

自分でも顔どころか、全身が真っ赤になるのがわかった。別に男に見られても、恥ずかしくはないはずだけれど、僕は天使。
男でもあり、女でもある。非常に繊細なのだ。

僕はあわてて両手で股間を隠すと、男に背を向け、スカートを穿き、急いで翼を引っ込め、上着を着た。

「とにかく、僕は天使なんだ」

僕のあまりのあわてっぷりに、男はうすら笑いを浮かべながら、「ああ、わかったよ。もう十分だ」とぶっきらぼうにいった。 

「えーっと、僕......どこまで話しましたでしょうか?」 

僕はあまりの衝撃的な出来事に、いつもの段取りをすっかり忘れてしまっていた。

「おまえが『俺を迎えに来たんじゃねえ』っていったところまでだ」

そうそう、そうでした。

「とにかく、一度そこから降りていただいてよろしいでしょうか?」

僕は自分がひどく動揺しているのがわかった。
いつの間にか、僕の口調は、あの方と話すときのものになっていた。

「俺だけではちょっと無理だな。おまえ手伝ってくれよ」

「いいけど」

背の低い僕は丸椅子に手をかけしっかり押さえた。その間に男は、ロープの結び目を緩め、ロープから首を外すと、僕の肩に手を置いて、そこから飛び降りようとした。

その拍子に椅子が倒れ、凶暴な顔をした男は、なだれかかるように僕に覆い被さってきた。
男の右手は、僕の左胸に押し付けられている。

僕の胸はペコんと凹み、胸から手を退けた男が一瞬鼻で笑ったのを見て、僕の気持ちもペコんとへこんだ。

天使にあるまじき感情だけど、『こいつ殴りてぇ!』という考えが、一瞬頭を過ぎったことは僕だけの秘密だ。
まあ、あの方にはバレバレだけど。 

「おじさん。いや、お兄さん。あそこを見てくれる」

「あそこか? おまえの?」

『こいつ、本当にボコボコにしてぇ!』

僕が二度もこんなことを思ったことは、死ぬまで? 天使って死ぬんだっけ......まあ、とにかく、誰にもいえない秘密だ。
あの方にはバレバレだけどね。

「そうじゃなくて、あれ」

凶暴な顔をした男は、僕が指さす方をまじまじと見た。そして、素っ頓狂な声を上げた。

「なんだありゃ?」

「あれは悪魔だよ」

そこにはいつもの悪魔がいた。
いつものように人の形をした黒い影がユラユラと揺らめいていた。
そして今度は普通に話しかけてきた。

「また、おまえか。おい、いい加減にしろよ。おまえ、俺のストーカーか? 俺のことが好きなのか? だったら抱いてやってもいいぞ。服を脱いでこっちへ来い。いますぐ抱いてやる。おまえ、天使だろ? 悪魔の子どもを孕った天使なんて笑えるな」

「おまえこそ、いい加減にしろ! 何を吹き込まれたのか知らないが、おまえは、悪魔なんかじゃないんだ」

「なにをいう。俺は正真正銘の悪魔だよ。この禍々しいからだを見たらわかるだろ?」

「って......ただ黒い影がユラユラしているだけだけど。じゃあ訊くけど、おまえ、ただの一度でも人間の魂を喰らったことがあるのか?」

「......」

「それ見ろ、ないだろ?」

「そ、それは......おまえがことごとく俺の邪魔をするからだろ」

「そうだ、その通りだ。僕は確固たる意志を持って君の邪魔をしている。一度でも人間の魂を味わってしまえば、君は本当の悪魔になってしまうからだ」

悪魔の影はなぜだ? と考えているのか、その揺らめきが止まっていた。

「それは、君が僕の弟だからだよ。僕たちが人間として生きていた頃は、僕と君は姉弟だった。悪魔の意識に囚われた君は、そんなことも忘れてしまったろうけど」

「おまえが、俺の姉さん? そんな冗談はよせ」

「おまえは、学校でのいじめを苦にして自ら命を断とうとした。自分をいじめた連中の名前をしたためた遺書を残して、高校の校舎の屋上から飛び降りようとしたんだ。しかし、最後の最後に思いとどまって、飛び降りるのをやめたんだ。生きようとしたんだ。けれど、そのとき降り始めていた小雨に、運悪く足を滑らせて命を落とした。おまえが死ぬのを待ち構えていた一匹の悪魔は、おまえの魂を喰らい損なった。悪魔は人を殺した人間か、自ら命を絶った人間の魂しか喰えないからな。それでその腹いせにその悪魔は、天使がおまえを迎えに来るまえに、おまえにまったくのデタラメを吹き込んだんだ。そうして、おまえはいまもこうして彷徨っている。その悪魔のせいで。そうだよな、あんたのことだ! そこにいるんだろ? 姿を見せろよ!」

僕の言葉に呼応するかのように、突然、部屋のなかの空間が捻じ曲がり、渦巻いたその暗闇のなかから、巨大な黒い影が現れた。

完全に姿を現したその悪魔は、見るからに、悪魔のために誂えられたような服をその身に纏い、見るからに、映画に出てくるような禍々しい悪魔の形相をしていた。
頭から突き出た螺旋状の黒い二本の角が、左右アンバランスで異様にでかい。

「おまえが、あの噂の天使か? 悪魔たちの間で、おまえの話が上がらない日はない。おまえのせいで、人間の魂が手に入らず、腹を空かせている悪魔たちが山ほどいるからな」

幾重にも重なり合った、低く不気味な声が僕のからだを揺らす。

「やっと姿を現したな。よくも僕の大切な弟をこんなつらい目に合わせてくれたな」

高校二年生の春、僕に突然の死が訪れなければ、弟を守ってあげられたのに、と思ってしまう。

「そうか。こいつはおまえの弟だったのか。騙されるやつが馬鹿なんだよ。おまえの弟は弱くて馬鹿だから。それで、いじめられて死のうとまでしたんだろ?」

「黙れ! 僕の弟は優しすぎたんだ。弟の悪口をそれ以上叩いてみろ、思い知らせてやる」 

「面白い。どうやって思い知らせてくれるんだ? 頭に輪っかも乗っていない、見習い天使さんよ」

そう......僕はまだ見習いの天使だ。
だから頭の上に天使の輪っかは乗っていない。

「どうする? もし、僕がおまえの名前を知っていたら」

「ふざけるな。俺はこの千年もの間、誰にも自分の名前を話したことはないし、誰にも俺の名前をいい当てられたこともない。おまえみたいな見習いの天使なんかが知っているわけがないだろう?」

「それは、どうかな?」

悪魔は自分の名前をいい当てられると、その相手に絶対服従しなければならない。
ずっとではなく、一度だけだけれど。
死ね、といって殺すことはできない。
しかし、闇に帰れといわれれば、悪魔はそれに従わなければならない。

こいつはそれなりに位の高い悪魔なのだろう、と僕はその気配から察しがついていた。

面白いやってみろ、とふんぞり返って、なんの攻撃もせずに黙って見ている悪魔をよそに、僕は、昔僕が人間だった頃、弟と一緒によくやった悪魔を退治するゲームで覚えた、知っている限りの有名な悪魔の名前を大声で叫び続けた。

最初は、なんだハッタリか、本当は知らないんだな、と冷ややかな目つきで僕を見ていた悪魔の表情が、ある名前を口にしたとき、一瞬曇った。
僕はそれを見逃さなかった。

悪魔は、しまった、とばかりに攻撃を仕掛けようとしたが、時すでに遅しだ。

この名前だな。そう確信した僕は、その名前を高らかに叫ぶと、「闇に帰れ!」と命令する。
そうすると、先ほどまで立ち込めていた禍々しい暗闇は、その悪魔の叫び声とともに一瞬にして消え去った。

僕の弟は、戸惑いを隠せずに、激しくその黒い影を揺らめかせている。

凶暴な顔をした男は......今は優しい顔をした男は、肩を震わせ、しゃくり上げている。

「なんだいったいどうしたんだ?」と僕が声をかけると、「俺の弟も優しい奴だった。もしかしたら、おまえの弟と同じような目に遭っているかもしれない」と男は心配になったという。

「大丈夫だよ。彼は僕と同じ天使見習いだ」

実は、僕は彼のことをよく知っていた。僕がこの男のところに来たのは、僕の弟のことももちろんあったが、その天使に頼まれたからでもあった。天使は身内の、自分で自分を殺すその行為を思い直させることはできないからだ。

本当はこのことは教えてはいけないんだけど、僕は規則を破った。
天使見習いの期間がこれですこし伸びるのは確実だった。

「お兄さんが寿命を全うしたら、きっとその頃は聖天使になっている弟さんが迎えに来てくれるから、それまでは罪を犯すことなく生きてくれ」

優しい顔をした男は、小さくうなづくと、「ありがとう」と僕に丁寧に頭を下げて、微笑んだ。

僕の弟は、いまだに自分が何者なのかを思い出せずにいた。そして、まだ黒い影のままだ。

「たくと、君の名前は拓人だ」

その言葉に、黒い影は一瞬ビクッと反応した。そうして、次第に自分の本当の姿を見せ始めた。
しばらくすると、懐かしい弟の姿がそこに現れた。

「拓人、お帰り。ひとりで寂しかっただろ?」

「ごめん......さっきの話は聞いてたけど、俺なにも思い出せなくて......あなたは、俺の姉さんなんですか?」

「いいよ。別に無理に思い出そうとしなくても」

僕は拓人をぎゅっと抱きしめる。拓人は大人しく僕にからだを預け、何かを思い出そうとするかのように、鼻先を僕の髪にくっつけて、クンクンと匂いを嗅いでいる。

拓人は僕のことを思い出したわけでもないだろうけど、僕のからだに腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返してきた。

「これから、いま僕を導いてくれている聖天使が、拓人を迎えに来てくれるから。ちょっと待っててね。僕も一緒に行くから、なにも心配いらないからね」

「うん、ありがとう。ね、姉さん......」

拓人は僕の胸のなかでうれしそうにうなずいた。

あれっ? おかしいな、聖天使が降りて来る気配がまったくしない。僕は頭のなかで連絡を取る。
すると、『君が連れて来てくれないか?』そう声がした。

『だって......僕、頭に輪っかの乗っていない見習いの天使ですよ。そこに連れて行くことができるのは、聖天使だけですよね?』

僕は当たり前のことを、すこしふてくされて訊ねた。

『頭の上を見てごらん。君はもう聖天使だ』

そういわれて僕が頭上を見上げると、そこには金色の天使の輪っかが光り輝いていた。



眼下にさっきまでいた優しい顔をした男が住む、赤い屋根が特徴的な小さな家が見える。

天に向かって羽ばたき続ける僕にしっかりしがみつき、拓人はすこしづつ失くした記憶を思い出しているみたいだ。

「......姉さん?」

ぼそっとつぶやいた。

「拓人、しっかり掴まっててね」

「うん、姉さん......」

僕の腰に回した、拓人の腕にぎゅっと力が入る。こうやってからだを寄せ合うのも、ずいぶん久しぶりだ。


あなたが思い悩んでいるときに、僕みたいなおせっかいな誰かが寄り添ってくれることがあったら、きっとそのひとは、あなたにとって、見習いの天使に違いない。

だから、どうか、彼の、彼女のことばに耳を傾けて欲しい。

あなたが話し疲れて眠るまで、嫌な顔ひとつ見せずに、きっと付き合ってくれる。

背中の天使の翼を披露してくれるかどうかはわからないけど、いくらかの安らぎを与えてくれるのは間違いないと思うから。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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