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『サザンクロス ラプソディー』vol.29

「この家の煙突を使えるようにしないと、そのうち煙草の煙でスモークされた人間が出来上がるかも」

ポールは茶目っ気たっぷりにそういって鼻をピクピク動かした。
ポールのこの仕草は、いいにくいことをあえて伝えるときに無意識に出る癖だ。

築百年近いこの家には、いまは塞がれて、使われていない暖炉があった。

俺もユウカも煙草を吸う。

もちろん、二階にある俺の部屋で吸う分については、「好きにしていい」とポールはいってくれていた。
しかし、嫌煙家のポールは、そういう嫌味のひとことでもいわなければ気がすまないのだろう。

実際に、この家が煙草臭くなるのは、この家の持ち主のポールにとっては、あまり好ましくないことなのは、当たり前のことだった。

「一階のユウカの部屋では絶対に煙草は吸わないでくれ」とポールは、それだけは譲れないというような強い口調で、俺とユウカにいい切った。

というのも、ポールの兄、アドンの家族や、ポールの友人たちのなかに、誰ひとり喫煙者がいなかったからだ。
だから、一階で煙草の臭いがしようものなら、この家を訪れた彼らが嫌がるのは目に見えて明らかだった。

二階の俺の部屋には小さなキッチンがあり、換気扇も付いていたので、ユウカは煙草を吸いたいときには俺の部屋に来ていた。

「ポール。俺は煙草を吸うけど、なんで、俺をここに住まわせてくれたの? 最初に、それは伝えていたと思うけど、そのときポールは俺の好きにしていいっていったよね?」

ある日、喫煙の話になったとき、ポールが煙草を吸う俺にここに住んでいいといってくれたことを、以前から不思議に思っていた俺は、そのことについて、ポールに訊いたことがあった。

「それはね。ヤマの部屋には、以前、私の昔からの知人のヘビースモーカーのおじさんが住んでいたんだ。彼が私と彼の生まれ故郷でもあるパリに帰郷した後、一応、天井から床まできれいにしたんだけど、煙草の臭いだけがどうしても取れなかったんだよ。だから、煙草を吸うヤマにはその臭いはまったく問題ないと思ったんだ」

ポールは自分の鼻で確かめただけでは心許なく、アドンにもお願いしたそうだ。

「臭いよ。かなり臭いが残っている。壁紙を張り替えて、いま備え付けている家具も取り替えない限り、もうこの部屋には喫煙者しか住めないかも」

そのときアドンは顰めっ面をしてそういったそうだ。

「ああ......そういうことなんだね」

それを聞いて、俺は納得した。

「それにヤマは、仕事のある日は、朝の九時ごろ家を出ると、夜の十一時ごろまで家に帰ってこないだろう。休みの日も、どこかへ出かけることが多いから、一日中、家のなかで過ごされる住人よりは、私としてはありがたいと思っているんだ」

ポールは、この前までここに住んでいた誰かさんたちを思い出すかのように、あのときは本当に参った、みたいな顔をした。

いわれてみれば、そうかもしれない。
俺は休みの日も、日中は家にいることがほとんどなかった。



「これで使えるから。ユウカ、本当にありがとう。これでツグミに怒られないですむよ」

キッチンカウンターの上に置かれた真新しい炊飯ジャーに変圧器をつなぎ終えると、ポールは日本人のように深々と頭を下げて、心の底からの感謝のことばをユウカに伝えた。

普段ニヒルで、屈託のない笑顔を見せることなどほとんどないポールが、本当にうれしそうだ。

というのも、その姿を消したツグミ愛用の電子ジャーの代わりに、この新品をユウカがポールにプレゼントしたからだった。

実際のところは、ユウカが使いたかったから、高性能の電子ジャーを友だちに頼んで送ってもらったのだった。

ユウカは料理で俺の胃袋をつかもうというわけでもなかったのだろうが、俺のためにあれやこれやと凝った料理を作りたがった。

それに、やはりユウカも日本人だ。ご多分に漏れず、白いご飯が大好きだった。

ユウカは何年ものあいだ貞淑な妻を演じ、夫だけに尽くしてきただけあって、家庭料理は本当に上手だった。

朝食には、目玉焼きやだし巻き卵のほかに、インスタントではない味噌汁、ユウカお手製の納豆、幽庵焼きや西京焼きなどの焼き魚、ユウカが毎日かき混ぜているぬか床で漬けたぬか漬けなど、日本の定番の朝食に、さらに工夫をこらしたものが並んでいた。

俺より一時間ほど早く家を出て、職場へ向かうポールのためにも、ユウカは朝食を用意するようになっていた。

フランス人のポールは、カフェオレとクロワッサンで朝食をすませるのが常だった。
以前、ポールがクロワッサンをカフェオレのなかに浸して食べているのをみて驚いたことがある。サクサクのクロワッサンをなぜわざわざぶよぶよにふやかすのか、俺にはまったく理解できなかったからだ。

最近では、ポールもユウカの作る朝食を楽しみにしているようだった。

これは、ユウカからポールへの提案だったという。

英語学校に行くこともないユウカは、朝食のあいだだけでも、ポールとひとことふたこと会話ができれば、すこしは英語の勉強になると思ったらしい。

ポールの彼女は日本人のツグミだ。
しかし、ツグミはポールに日本食を一度も作ってくれたことがないという。

ツグミも白いご飯が大好きで、日本からシドニーへ来るたびに持参するご飯のおともで、家でひとりきりのときは簡単に食事をすませることが多かった。

ツグミがポールといっしょのときは、もっぱら外食だった。
それも、フレンチレストランに行きたがった。

ツグミの大好物のひとつはエスカルゴのブルゴーニュ風で、アルコールを一切飲まないツグミは、それに合わせて白ワインを嗜むこともなく、ミネラルウォーターでそれをおいしそうに口に運ぶという。
「あの感覚は私にはまったく理解できない」とポールは苦笑していた。

冷蔵庫の冷凍室は、ほぼポール専用で、レンチンする冷凍食品、クロワッサンなどがその場所を占めていた。

冷蔵室の真ん中の棚は、タッパーに入ったユウカお手製の料理の数々が、日付が書かれた付箋が貼られて、きちんと積み重ねられ、並べられていた。

そんな料理上手なユウカだったが、さすがのユウカも、鍋ではご飯を思ったようにおいしく炊けなかった。それで我慢できず、友だちに頼んで電子ジャーを送ってもらったというわけだった。

ポールはこれで一安心、みたいな表情を見せていたが、実際のところはどうなるのかわかったもんじゃない。

まえにあった電子ジャーよりも性能が良いものがあるとはいっても、じゃあ、あの電子ジャーはいったいなぜなくなったのか? そして、なぜ新しいものがあるのか? ツグミはそんなことを必ず知りたがるに違いなかったからだ。
まあ、この一件で、一悶着起こるのは確実なことだった。

またふたりの口論を聞かされる羽目になるのかと思うとすこし気が滅入ったが、そのときは話を振られるまえにそっと逃げだすことにしよう。



ユウカがこの家に住み始めて、年も替わり、一月下旬になっていた。

年末年始、クリスマスホリデー期間中、俺とユウカは四六時中いっしょに楽しいときを過ごした。
喧嘩などをすることもなく、ユウカに対して愛おしいと思う気持ちがいっそう強くなっていった。

俺はこのころになると、ユウカのことを、大切にしたいただひとりの彼女と思うようになっていた。

シルビアからのお出かけのお誘いも何度となく断り、ユウカと過ごすことに心地よさを覚えるようになっていた。

真剣に付き合い始めてわかったことだが、意外なことに、ユウカは束縛したがるタイプだった。

「まえはそんなじゃなかっただろ、ユウカ。どうしちゃったの?」

「シルビアの誕生会に顔出し程度に出かけるから」と俺がいったら、ユウカはすごく怒り出した。

「誕生日のパーティーで他にも十人程度いる会だから。レストランでみんなで食事をして、シルビアに誕生日のプレゼントを渡すだけだし」

まえにも同じようにシルビアから声をかけられて参加したときには、そんな感じのお誕生日会だった。

俺がユウカにそう説明しても、彼女は、「行かないで!」といい張った。

俺としては、数すくない日本人以外の友だちのシルビアとは、できればこのままずっと変わらず友だち関係を続けていこうと思っていた。

「ユウカがそこまで束縛するタイプだとは思わなかったよ。シルビアは本当にただの友だちだから、俺たちはユウカが思うような関係じゃないよ」

「だって、彼女のことは嫌いじゃないんでしょ? 本当に下心は彼女に対してないの?」

「下心は本当にないよ」

シルビアはかなり魅力的な女性だ。
知り合ってから二年近くは経っていたし、ふたりきりで出かけることも何度かあったけれど、お互いにそんな気持ちになったことは一度もなかった。
肩を抱いて慰めたりしたこともあったが、それは友だちとしての行動だった。

俺がどう説明しても、ユウカは、「行かないで!」の一点張りだ。

結局、俺はシルビアに「申し訳ないんだけれど、今回は参加できないから」と断りを入れた。

「どうしても来られない?」

シルビアから問い詰めるように訊かれたが、「すまない今回はどうしても行けないんだ」と突き放すようにいって電話を切った。

側で俺とシルビアのやり取りを黙って聴いていたユウカは、ホッと安心したような表情を浮かべて、「ありがとう」と微笑んだ。



「帰ってくるの、遅かったね。どこかに寄ってたの?」

「いいや。今日は片付けに時間がかかっちゃって。オーダーストップが過ぎていたのに、常連のお客さんから注文が入っちゃって、断り切れなくてさ」

俺がいつもよりすこしでも遅く帰ることがあると、ユウカは必ず探りを入れてきた。
俺がどんな理由を話しても、ユウカは眉をひそめて、「本当かな?......」と疑った。

そんなある日、ユウカは、いま〈garasya〉で働いているウェイトレスたちのことも根掘り葉掘り訊いてきた。

俺はシルビアの一件のこともあって、ユウカのその執拗さにすこし嫌気が差してしまった。

「そんなに俺がほかの女の子にちょっかいを出すのかもと心配しているのなら、それは取り越し苦労ってもんだよ。俺は二股なんかできるほど器用な人間じゃないから」

「二股?......それって私を非難してるの?」

ユウカが英語学校を辞め、オーストラリアを去ることになったのも、ユウカが俺を含めて三股をやっていたことがバレたせいだった。

ユウカは俺のこのことばに敏感に反応した。

「いや、ユウカのことじゃなくって。俺ができないっていってるんだよ」

「どうせ私は尻軽女だからね......」

「だからユウカのことをいってるんじゃないからっ!.....」

以前、エッチだけの関係だったときには、こんなことで揉めることなんか決してなかったのに。

俺は基本的に女性とは口論をしない。
そうなりそうなときは、いったんその場を離れることにしている。相手が興奮してくると、話はどんどんエスカレートして、とんでもない方向へ向かうことがあるからだ。

いまだに興奮冷めやらぬユウカをシカトして、俺が部屋を出ようとドアノブに右手をかけたところで、ユウカは俺の右腕を掴んだ。

ユウカは半袖シャツから覗く俺の二の腕に、自分の吸っていた煙草の火を強く押し付けた。

普通だったら、すぐに飛び上がるように驚いて、「なにすんだよ!」と大声で怒鳴りながら、煙草を振り払うところだ。

もちろん、声が出そうなくらい、煙草の火は熱かった。

けれど、俺はユウカが自分から煙草をどけるまで、じっと我慢して、ユウカから顔を背けて、黙ってその場に立っていた。

しばらくして、ユウカが掴んでいた俺の腕を離すと、俺はなにもいわずにそのまま部屋を後にし、階段を降りて一階のキッチンへ向かった。

この夜、ポールは出張で家にいなかった。もし、隣の部屋にポールがいれば、ユウカはこんなに声を荒らげ、興奮することもなかっただろうし、こんなことを引き起こすこともなかっただろう。

俺はキッチン横のドアからベランダへ出た。
小さな丸テーブルに肘をつき、椅子に腰掛け、項垂れる。

『なんでこんなことに......』

俺はやりきれない気持ちでいっぱいだった。

火を押し付けられた俺の二の腕はじんじんと痛み出した。
見るとすでに水脹れができている。

ドアが開いた音に俺が視線を向けると、そこには、リビングから差し込む明かりを背にして、ユウカが心細そうに立っていた。

「ごめん......」

そういったっきりユウカは次のことばを見つけられないようだった。

「ユウカ......すこしは落ち着いた?」

俺は静かな口調でいい、ユウカの瞳を真っ直ぐ見つめた。

「ヤマさん、本当にごめん......」

ユウカはまるで小さな子どものように、ポロポロと涙を溢していた。
その涙は、ユウカの頬から顎を伝って、床にポタポタと滴り落ちている。

「いいって。ユウカがそれだけ俺のことを真剣に好きなんだってことは理解しているから。けど、これはちょっとやりすぎだったと思うよ」

ユウカはいつもクールビューティーを気取っているけれど、実際は、感情の起伏が激しく、時折りそんな自分を抑えることができないようだった。

「ユウカ、悪いけどさ、これなんとかしてくんない? 見て! すごく腫れてきてるから......」

「あっ! ごめん......本当にごめんなさい」

ユウカは零れ落ちる涙を手のひらで拭いながら、水脹れになった俺の二の腕をまじまじと見つめた。

この後のユウカの処置はてきぱきと見事なものだった。

けれど......結局、このときの火傷の痕は、この後もずっと俺の二の腕に居座り続けた。

ユウカとの思い出といっしょに。


〈続く〉


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1989年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。

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