短編小説 『今日という日にありがとう』
俺は今朝も重たい体を引きずりながら、満員電車に乗り込む。
電車の中は、一度入ったらもう簡単には体勢を変えられないほどぎゅうぎゅう詰めだ。
そんな中動けないでいると、突然、誰かから腕を掴まれた。
「この人、痴漢です!」
見るからに女子高生が、俺の右腕を掴んで叫んでいる。
「違う、俺は触ってなんかない」
掴まれた腕を振りほどこうとするが、乗客数人がかりで電車から無理やり下ろされ、人々に囲まれた。
そうこうしているうちに、駅員もやって来た。
その時、誰かが叫んだ。
「人が飛び込んだぞ」
辺りは騒然となった。
人びとに押さえつけられていたその手を振りほどくと、その隙に群衆の間を縫うように小走りにその場を後にした。
駅を出て朝方の冬の曇り空を仰ぐと、息を整える。まだ心臓が激しく鼓動を打ち続けている。
ふと目にはいった大きな黄色の文字が印象的な近くのハンバーガーショップに入る。
受け取ったコーヒーとハンバーガーを手に窓際から遠い席に座った。
もしかしたら、さっき俺を取り押さえていた連中の内の誰かに見られるかも、そういう考えが一瞬頭を過ったからだ。
本当についてないな......。
まったく...とんでもない1日の始まりだ。ため息しかでない。
「はぁ.....」
「ここ、座ってもいいですか?」突然、若い女性の声がした。
隣の席は空いているのに、何でだろう?声のする方を振り向くと、
「いいですか?」
帽子を深々とかぶった一人の少女が立っていた。
「どうぞ」
投げやりな言葉をかける。
少女がつけていたマスクを外し、その顔を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。
彼女は、有名なアイドルグループのセンターを務めている、今、日本で一番人気があると言っても言いすぎではない少女だった。
「なかなか一人ではこういうところ入れなくて、今日は久しぶりに来られたの。マネージャーを撒いてね」
俺が彼女の素性に気がついた様子をみてとると、そう言いながらクスッと笑った。
煌びやかな衣装を着ていなくても、芸能人オーラとでも言うのだろうか、一種そんなものを身にまとっていた。
「だけど、一人だとすぐバレちゃうんだよね。おじさんが一緒だと誰も気にしないでしょ。少しの間だけお願いします」
頭を下げた拍子にセミロングの髪が揺れる。可愛い......。
阿呆みたいにポカンと口を開けていた自分に気づいた俺は、頭を振っていまだ熱すぎるほど熱いコーヒーをひとくち口に運んだ。いつも思うが何でこんなに熱いんだ。
少女は、ハンバーガーとフレンチフライをその小さな口に頬張りながら、とめどなく話し続ける。
「昔は、友達とこういうとこにばっか来てたんだけど、アイドルになっちゃったから、なかなか来られなくて......」
昔を懐かしむかのようにその瞳は遠くを見つめていた。
「おじさん、仕事じゃないの?こんな時間にこんなとこへ来るなんて。おじさんの格好からすると、会社員?サボってんの?」
「そうだ、会社。会社に行かないといけない」
出勤途中だったことを思い出した。
仕事があることを忘れるほど動揺していたのだ。
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って席を立とうとすると、
「ちょっと待ってよ。こんないい女を一人ほっぽって行くの?もうちょっと一緒にいて、お願い?」
彼女はそう言うと、甘えるような女の顔をつくった。
その色気に誘われるように席に戻る。そう言えばこの娘は、テレビや映画で女優としても活躍しているのだった。
「おじさんって、私の大好きだった伯父さんに似てる。ママのお兄さんだったんだけど、本当に優しくて大好きだったんだ。けれど、早くに死んじゃった」
死んじゃった人に似ているって言われてもなぁ...嬉しいような、ちょっと違うような。内心複雑な気持ちだった。
「あの世で元気にやっているかなぁ?」
少女は、少し涙目になりながら、フレンチフライを頬張った。
少女の食事が終わるのを見計らって、席を立とうとすると、
彼女が俺の手を掴んだ。
「もうちょっと一緒にいようよ」
そう言う少女に手を引かれるように、ハンバーガーショップを後にする。
少女は、いつのまにかマスクをつけ、メガネをかけ、帽子を深々とかぶり、アイドルオーラを一切消していた。
そして、俺の手を引いて繁華街を縫うように抜ける。
「良くこんな裏通りを知っているなぁ」
感心しながら後をついていくと、やがてラブホテル街に出た。
少女はそのうちの一つに躊躇もせずに俺を連れて入ると、手慣れた様子で部屋を物色し、振り返り、「これでいい?」と微笑んでいる。
俺は想像もしていなかった展開に言葉を失った。
「夢でも見ているんだろうか?」
一瞬だけ、昔の可愛さ優しさは何処へやら、今では口うるさく嫌みばかり言う妻や、父親の俺を汚ないから、とバイ菌あつかいする思春期真っ只中の生意気な娘の顔が頭を横切った。
しかし、そこは悲しいかな男の性、ヤレるのであれば、ヤリたい。こんなに可愛く、しかも、アイドルだ。願っても二度と叶うはずもない、千載一遇のチャンスを逃す馬鹿はいないだろう。
部屋に入るなり、彼女は大胆だった。おもむろに俺のズボンに手を掛けると、ベルトを外しだした。
「まあちゃんって、呼んでいい?」下から見上げながら、すこし恥ずかしそうにはにかんでいる。
どうやら、少女が好きだった伯父さんの名前らしい。
「ああ、好きに呼んだらいい」
俺のその言葉を聞くと、彼女はニッコリと微笑んだ。
「まーちゃん、まーちゃん。大好きだった。ずーっと、こうしたかったんだ。だけど...まーちゃん、突然逝っちゃったから寂しかった。すごく、寂しかったんだから......」
ヤっている間中、彼女は、今はもう会うことも叶わぬ愛しい男の名を呼びながら、伝えられなかったその思いを言葉にした。
久しぶりの若い肉体は、日々の暮らしに疲れ果て、惰性でただ生きていた俺の心とからだに何十年ぶりかに驚くほどの活力をもたらした。
ホテルを出ると少女は、「ありがとね。まーちゃん」と、言葉を残し、振り返ることもなく足早に去っていった。
「こちらこそ、ありがとう。一生の思い出になったよ」
そう呟いて、少女の後ろ姿を見えなくなるまで見送ると、唐突に思い出した。
「そうだ。会社に行かなければ」
もうすでに大変な遅刻だ。大して取り柄の無い俺だが、無遅刻無欠勤が唯一の自慢だった。そんな俺が、もう三時間も遅刻している。
通りを抜けるとタクシーを拾い、行き先を告げて、会社へ向かう。
車に乗り込むと、座席の下に紙袋が置かれていることに気がついた。
「運転手さん」と、声をかけようとして紙袋を持ち上げると、隙間から札束が覗いている。
「すいません。ここでいいですから」そう言って、何事もなかったかのように、その紙袋を手に取ると、タクシーを降りた。
降りた所は、俺の勤める会社からはほど遠い、ひと気がまばらな公園の片隅だった。
紙袋の中を確認する。
百万円の札束が、二十ほど入っていた。かなり重い。
今までこんな大金を見たことも、手にしたことも、勿論なかった。
そうだ。今までにやりたかったことをやろうと思い立った。
警察に行くことなど考えもしなかった。
「捕まったっていいや、今日はついてるし、俺の人生がこれで終わってもいいや」そう腹を括った。
向かった先は、テーラーメイドのスーツを仕立ててくれる有名店だ。
以前から一度は自分の体に合ったスーツを仕立ててみたかったのだ。
百万円ほどを使い、最高級のスーツの寸法を測って注文し、その店を後にする。出来上がってくるのが今から楽しみだ。
今度は、高級時計店に入った。時計は驚くほど高く、二千万円とかするものもあったが、二百万円ぐらいのロレックスを買った。それでも俺にとってはかなり贅沢な買い物だった。
「なんか、気分がいいぞ。今日は何でもできそうだ」
無敵になったような気がしていた。
突然、人がぶつかって来た。
「てめえ、何すんだよ!」
見るからにチンピラだった。
いつもなら、「すみません、すみません」と、平謝りの俺だが、今日は違う。気分は無敵だ。
「お前が悪いんだろう?」と、強い口調で言い返す。
「なんだと!この野郎!」
殴りかかってきたチンピラを軽いステップでかわすと、ジャブ、ストレート、フック、アッパーカットをチンピラに放つ。
男は、地べたにひっくり返って、悲鳴を上げていた。
「気分は最高だ!俺の人生、今の今までクソみたいなものだったけど、すべてはこの瞬間のための我慢だったんだ」気分は、最高、最強だった。
*
駅のプラットフォームでは人びとがざわついていた。
「超気持ち悪いんだけど。あのオヤジ、最後に私を見つめていたんだよ。忘れられないよ、あの恨めしそうな目。怖い、怖いよ」
俺の腕を「この人痴漢です」と掴んだ女子校生が、怯えた表情で震えながら友達の少女にそう溢していた。
「さっき、聞いたんだけど。何でも、痴漢で捕まって皆に取り押さえられた中年男が、それから逃れようとして、線路に落ちたみたい」大勢のなかの一人がそう話していた。
俺はプラットホームから、散り散りになった自分のからだを眺めていた。すると、隣に先ほどの少女、タクシーの運転手、そして、チンピラが並んで立ち、俺に微笑みかけていた。
「この前は、あのアイドルでしょう。それから、立て続けに三件」
どこからか、そんな声がした。
*
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この作品は、以前発表した作品に人称表現を変え、加筆、修正を施しリメイクしたものです。
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