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『「介護時間」の光景』(205)「その他、おおぜい」「ろうそく」。5.7。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(この『「介護時間」の光景』を、いつも読んでくださってる方は、「2007年5月7日」から読んでいただければ、これまで読んで下さったこととの、繰り返しを避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2007年5月7日」のことです。終盤に、今日、「2024年5月7日」のことを書いています。


(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)。

2007年の頃

 1999年から介護が始まり、2000年に、母は転院したのですが、私は、ただ病院に毎日のように通い、家に帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護を続けていました。

 そのまま、介護は続けていたのですが、そういう生活が4年続いた頃、母の症状が落ち着いてきました。

 そのため、それまで全く考えられなかった自分の未来のことまで、少し考えられるようになったのですが、2004年に母にガンが見つかり、手術し、いったんはおさまっていたのですが、翌年に再発し、それ以上の治療は難しい状態でした。

 そのため、なるべく外出をしたり、旅行をしたりしていましたし、2007年の2月に、熱海に旅行にも行けました。
 
 母の体調は、だんだん悪くなっていくようで、そのせいか、ほぼ毎日、病院に通っていました。本当に調子が悪いのが明らかでした。

2007年5月7日。

『もう、いつ言われてもおかしくなかったけれど、ずっと病棟でみてもらっていた医師に、病院に着いたら「お話が」と言われただけで、ずーんと気持ちが暗くなった。

 窓から見える光景がちょっと違って見える。
 何かのひもが風で舞っているのが見える。

 なんだか、変な感じ。
 せっかく晴れたのに、林の光景が気持ちよくない。

 今の母の状態は、点滴も入らなくなってきて、危ない状況。
 兄弟に連絡した方がいいかも。

 医師の言葉で、もう本当に危ないのはわかって、だけど、現実感が薄い。

 母は、夕食25分。
 だけど、ほとんど食べられない。

 病室の外のトイレには行けなくなって、病室の中にポータブルトイレを置かせてもらっている。ベッドからトイレに移すのも大変だし、日に日に衰えているのがわかる。

 1ヶ月以内。いや、急に、ということもあるから、ともいわれていた。

 トイレに行くだけで、こちらがほとんど体重を支えているのに、はーはーはー、と息が乱れている。

 ものすごくしんどそうだった。

 午後7時に病院を出る。

 送迎バスの出る近くの病院まで歩いて、その入り口にある公衆電話で家に電話をする。妻と話す。自分自身が、わざと暗くしているのだろうか、と思うくらいの声しか出ない。

 葬儀屋のこと、お金のこと、親戚も呼ばなくちゃ、といったことが、本当にせわしなく頭の中を回っている。

 でも何か現実感が薄くて、自分がふわふわ歩いているような気がしている。

 あんなに、ぜんぶ、終わって欲しいと思ったこともあったのに』。


その他、おおぜい

 病院の最寄り駅の近くには何件かコンビニがある。病院に通い始めた頃は、よく使っていたけれど、そのうちに近くのイトーヨーカドーの方が割安なので、そちらの方で飲み物をよく買うようになった。バス停のそばのコンビニは、途中で工事があって半年くらいなくなり、その後に大きいビルになり、その1階がまたコンビニになった。

 時々、寄る事がある。飲み物が並んでいる棚があって、その下から2番目くらいには、500ミリリットルの四角い紙パックの飲み物が並んでいる。その棚を、たぶん商品の取り替えか、補充のためか、大きく引き出しているから、通路の方にまで出っ張っている。

 ほとんど大きさの揃った飲み物のパックが、とてもたくさん、きっちりと整然と並んでいるのが、よく分かる。

 アニメか何かでよく見てきた、戦いの前に勢揃いして、勢いをつける演説が行われる時の、その他おおぜいのロボット軍団のように見えた。

ろうそく

 駅を出発して、すぐのところに、様々な路線を含めて多くの車両が止まっている、屋外の車庫みたいにも思える場所がある。

 そこは電車がたくさんあるから、そのぶん線路も多く、それに対応するように蛍光灯のような明かりも、たくさん立っている。

 ろうそくだ。

 それも、なにかをおくる時のような。
 鎮魂の炎。

 今、母の病状が悪くなり、いつも診てくれているお医者さんには、会わせたい人には会わせた方がいい、と言われるような時だから、そんな風に見えるんだろうな、とも思った。

                     (2007年5月7日)


 母は、2007年の5月14日に病院で亡くなった。

 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格もとった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2024年5月7日

 空が暗い灰色だった。
 降り方に変化はあるかもしれないけれど、今日は一日中、雨のようだった。

 静かだった。

 洗濯はあきらめる。

柿の木

 春になり葉っぱが出てくる前に、庭の柿の木の枝をかなりバッサリと剪定したつもりだった。これで、上へ上へと伸びていって、いつの間にかコントロールできないような高さになることを、とりあえずは防げたと思った。

 その一方でかなり枝が減ったので、今年は柿の実はできないかもしれない、もしかしたら、枯れてしまうかもしれないなどと不安だったのがウソのように、春になる頃には、柿の枝から新芽が出て葉っぱが育ち、いつもよりも密度が高く茂っていた。

 なんだかすごい。

 いつの間にか新緑のきれいな緑で古い柿の木は覆われるような感じにまでなっていたけれど、妻が枝を見て、花が咲きそうだし、もしかしたら今年も柿の実がなるかもと言っていたので、古く見えるけれど、柿の木の生命力のようなものは、まだ強いのだと思った。

認知症

 女性への独特の自己啓発本に思えた本を読んだ。

 全体としては、〝とにかく学び続けた方がいい〟という主張が通っていて、それには賛同できるのだけど、少し気になる点があった。こうして、一部を「切り取る」ように指摘するのはフェアではないかもしれないが、認知症に関わることだったので、やはり書いておこうと思った。

 中年期の終焉までに性欲を含む生命力を、あなたなりにできる限り消耗し切っておいたほうがいい。ただし、その結果については、どんな結果にせよ引き受けることを覚悟するしかない。
もちろん、リスクは大きい。後日大いに後悔することになるかもしれない。おそらく後悔する。
 しかし、それでもなお、私は中年期の終焉までに性欲を、あなたなりにできる限り消耗し切っておくことを薦める。
 出ないと、あなたは、老いて若い人に嫉妬するはめになるかもしれない。高齢者施設で男性介護士に強姦されるという妄想にとらわれ大騒ぎするはめになるかもしれない。
 看護師を勤める年下の友人によると、高齢者施設には、この種の「元淑女」が多いそうだ。若くして夫を戦争で亡くし、夫に貞節を誓い生涯清らかに生きてきた真面目な女性が、認知症になり、高齢者施設でイケメンの男性職員が来ると、サッと下半身裸になるそうだ。下半身を裸にするのは、四〇年や五〇年前に徹底的にしておくべきだった。

(『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください』より)

 私自身も認知症の専門家ではない。認知症の介護をしている家族介護者の心理的支援をする経験と、自分自身の個人的な体験しかないので、こうした指摘をする資格がないのかもしれない。

 だけど、昔は「色ボケ」などと蔑称のように言われていたこうした症状が、(もし本当に、ここに登場する年下の看護師の友人が目撃していたとしても)認知症によって抑制がとれてしまい、もしかしたら行動として出てしまっているだけの可能性が高いのは常識だとも思う。それは症状であって本人の責任ではないし、そこまでの生き方と関係なく出現するのではなかっただろうか。

 前頭側頭型認知症になった当事者が、万引きをしてしまったとしても、それは症状の一つであると認められているはずだ。こうした人たちに、「過去に、法を犯したいというような欲望を発散させておかなったから」などと言えるのだろうか。

 ここに引用した著者の主張を強化するために「認知症」の患者の行動が、使われているような気持ちにもなった。この部分がなくても、著者の主張は十分に伝わるので残念な思いにもなるし、同時に、認知症という言葉や症状が広く知られるのと同時に、自分の主張のために「素材」として使われることが、他でも時々見られるようになってきたのが気になるので、この機会に書こうと思った。

 たとえば、「認知症になるくらいなら死んだほうがまし」とか「認知症になるまえに安楽死させてもらいたい」とか声に出す高齢者は少なくない。
 これは認知症という病気について無知だからこそ気楽に言えることだ。認知症が発症したからと言って、急に言動が混乱状態になるわけではなく、意志の疎通ができなくなるわけでもない。症状は段階をたどる。進行の速度を緩める薬品も開発されている。

(『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください』より)

 こうした著者の主張には全面的に賛同できる。だからこそ、前出の「イケメンの男性職員が来ると----」といった部分は、認知症に対して無知であると(著者自身にも)指摘されても仕方がないのだから、余計に残念な気持ちになる。

連休

 個人的には学校を出て最初に勤めた会社がスポーツ新聞社だった。入社した年の5月の連休中は、ゴルフの取材で名古屋に出張に行っていた。それ以降も土日も連休もほとんど関係がなかった。

 その後、フリーのライターになった時も、仕事を辞めて介護に専念していたときも、支援の仕事を始めてからも、連休はほとんど関係がなかった。

 だから、ゴールデンウィークが明けても、それほど気持ちに変化はないものの、家族介護者への理解が進まないのと同様に、さまざまな情報に触れることで、認知症のことも思った以上にわかられていないのではないか、と思ってしまう。

 そうなると、自分が無力なのは分かっていても、もっとなんとかできることはないだろうか、と焦る。

 ただ、そうしたことが、自分自身への疲労感につながっているのかもと気がつき、もっと何かしないといけないのではないか、という気持ちを意識して少し緩めなくてはいけない、とも思ったりもしている。

 雨はずっと降っている。

 それでもできるだけのことはやっていこうと思っている。




(他にも介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)



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