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あれってなんだったの? 松尾潔②

 ところで、芸能事務所の運営者に限らず、芸能人やタレント、俳優や映画監督・舞台演出家など、文化に関わる人間が「不祥事」を起こすと、決まって起こる議論があります。
「本人に問題はあっても、作品に罪はない」
「本人に問題があるのだから、作品も鑑賞できない状態にすべきだ。公表の場を制限すべきだ」
 といったものです。
 クスリや不倫やセクハラを報じられたタレントや文化人/その作品は、だいたいこの文脈で擁護されたりハブにされたりするようですが、ところで、おれの知る限りでは、この議論に決着はついていないと思います。
 いえ、双方それぞれ、そう主張する根拠があるのかも疑わしい議論です。

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 例えば松尾vs山下でいうと、こういう示唆的な記事がありました。
 →松尾発言②

 ポイントになるのは、

(松尾氏は)山下の“変節”に驚く一方、一貫している考えも見て取れたという。「性加害は容認しないけれど、ジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていない」という部分だ。前述した松尾氏のラジオ番組において、山下との間にこんな一幕があったという。
「達郎さんのゲスト出演回は大好評で、ネットには書き起こし記事が残っているほどですが、今となっては興味深いやりとりもありました。アメリカ黒人音楽界のスーパースター、R・ケリーの話です。
 2019年の時点で、R・ケリーは未成年レイプや女性への性的虐待で音楽界やメディアから追放され、全米の公共電波で彼の音楽を聴く機会はほとんどなくなっていました(昨年、禁固30年の判決)。ですが達郎さんは番組の中で彼の曲をかけたいと。事件をご存じないのかと思い、私は『いまアメリカのラジオではかけちゃいけない人になっていますよ』と制止を試みました。
 達郎さんは放送の中でも『(R・ケリーは)才能はありますよね』と言っていましたから、アートの天才には免責特権があるという才能至上主義は、その頃から一貫しているわけです。ただ現代は、いい音楽だけ作っていれば良い時代ではない。達郎さんの考え方はジャニー氏の性加害に今も苦しんでいる被害者がいる現実から目を背け、なかったことにしかねません」

 という箇所ですね。

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 文中の「(山下の)アートの天才には免責特権があるという才能至上主義」というのがどこから出てきているのかはよく分かりませんが(つまり山下が「アートの天才にのみ、作者と作品を分けて考える人間なのかはよく分かりませんが)、ともあれ、要するに松尾がここで「作者と作品は分けずに考えるべき=作者に問題があるならその作品も公表しないのが当然」の根拠にしているのは「いまアメリカのラジオではかけちゃいけない人になって」いると、そういうものです。それだけ、と言いますか。
 なので注目したいのは、同じ文にある「ただ現代は、いい音楽だけ作っていれば良い時代ではない」というそこでしょう。逆にいえばこれって「どんな問題児でも、状況によっては、いい音楽を作ってればそれでいい」ということですよね。

 つまり松尾自身には、「作者と作品は分けずに考えるべき」とする根拠がないんですよね。少なくともこの記事ではそうです。

 加えるなら、前回のリンクも含め、「なぜ作者と作品は分けずに考えるべきなのか」を彼が語っているのをおれは見たことがありません。
 まあ松尾を丸ごと追ってるわけではないので、どこかで語っているのかも知れませんが、せめて根拠らしい根拠として挙げられているのは、上記の、「いまのアメリカではそうだから」という他律的な根拠だけだという、おれにするとそれが松尾です。

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 もちろん、日本人にとってアメリカ人はずっと「基準」でした。今でもそうです。「アメリカ人がそうなんだから→日本人もそうじゃなきゃいけない」。
 べつに、それがいけないというわけでもありません。とくべつ、「日本人は日本人としての主体性をもつべきだ!」とはおれは思いませんし(そもそもその「独立的な個としての主体性」という概念じたいがアメリカ(欧米)から輸入されたものですしね)。
 今回の松尾vs山下を見ていても、「なるほど松尾の根拠はアメリカか。ふうん」くらいにしか思いません。まあふつうの日本人だなと。

 という言い草を皮肉に思う人は思ってくれていいですけど、ところで、その「基準」となるアメリカ人とはどういう人種でしょう?



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