見出し画像

『0歳からの記憶』

━ 私の幼少時メモ ━


〇はじめに

以前、私がnoteで夢に関する「つぶやき」記事にしたところ
「中学生の頃の夢の記憶が?」とのコメントがあり、その流れで
「いえいえ中学生どころか小学生の頃の夢も覚えていますよ? 
なんでしたら0歳からの記憶もw」と返したことで…
さらに「中島らも・さんもエッセイの中で0歳のエピソードも書いている!」との他の方のコメントもあり、そんな話題で・・・
記事の中でささやかに盛り上がったことがありました。


〇まえがき

確かに私は
0歳からの映像も含めた記憶をそれなりにとどめているけれど、
そんな話をしたところで「そうなんだ~?」と、
流されるままに信用されないのは体験済みだし、場合によっては
嘘だ!」と決めつけられます。

人様にとって私のそんな記憶など興味も無い!というのが
そもそもの大前提です。

でも、noteの片隅でそんなコメントのやりとりがあったことで
ふと思うこともありました。

そもそもそんな幼少時の体験など
人様の文章からもあまりお目にかかってない気がする?  

それならこの際・・・

人に話したこともない
自分だけの思い出として残っている幼少時の
さまざまな出来事を形にするのはどうだろう?

市役所の広報車からのお知らせで 
よく「迷い人」の放送が聴こえてくるが
そんな人の年齢が私と変わらなかったり、
同年代の同級生や知人らもすでに 
この世から離れていたりもする・・・

そんなことで
誰の役にも立ちそうもない
自分に残っている「幼少時の記憶」を
私自身が消えたり忘却する前に、
自分のためだけにでも追想してみようかと・・・
ふと、思ったのです。 

期間は
「私が生まれて記憶を持ち始めてから
小学校に入学する以前まで」とし、
個人的な追想なので情景描写と説明は最小限にとどめる。
そんなコンセプトで。


目次 
〇プロローグ
〇産湯(ではないと思うけれど)
〇授乳
〇ハイハイ
〇魔の離乳食
〇風呂
〇母の舞台
〇2歳当時・家の周りあれこれ
〇3歳になった頃
〇家の中の風景
〇絵を描く
〇「オガクズストーブ」
*〇映画
〇幼稚園
〇かけおち(何故か文体を変えてw)
〇不穏な空気(文体復活w)
〇とある観光地の旅館
〇母との別れ
〇プレゼント
〇母との再会・そして・・
〇エピローグ


〇プロローグ

1949年、道東に位置し林業を中心とし、農業、酪農の村だった置戸村が
「置戸町」の昇格する前年に私は生まれた。当時の人口1万2千人。
四方を山で囲まれ中央を常呂川が流れ…冬は厳寒であり夏は猛暑ともなる。
「エゾナキウサギ」が発見された地でもある。

当然、後に得た知識であるが、私の父は土木現業所に努める地方公務員であり、河川の設計等を担当していたようである。

置戸町の中学校の初代校長である父を持った私の母は小学校の教員であり、
私の出産時には、後の町の幼稚園の前身である施設が私の自宅となっていた。
そして・・当時の田舎としては異例であろうことに母は「バレリーナ」でも
あって、自宅が教習施設にもなっていた。

同じ置戸町に距離を置いて父の実家があり、父を長男とした2男6女の大家族であった。 祖父は寺や神社までも手掛けたという大工。
祖母は初孫だった私の誕生をとても喜んでいたという。

母方の実家は置戸から汽車やバスで1時間以上はかかる村に居を構えていた。前述した通り母方の祖父は置戸中学校の校長だったのでその地から通っていたのである。

さて、状況説明はこの辺で・・本来の話に入ります。
テーマは「私の0歳からの記憶」。

なにしろ「幼児」の記憶なので詳細な描写はご容赦ください。


〇産湯(ではないと思うけれど)

とある一軒家の二階。母と父。周りに5人くらいの男。
陽はまだ明るい。

私はタライの中の湯舟に 支えられて浸かっている。

私はなんとなく気持ちよくて、、「ンコ」した。

周りから笑い声がして・・知らないおじさんたちが笑っていた。
その顔も ンコ した感触も・・なんとなく覚えてる。

わりと明晰なそのシーンがスタート。


〇授乳

これは温かい母の体温と共に覚えている。

ある時「いたずらごころ」だと思う。

母の反応が知りたくて
授乳時に母の乳首を歯もないのに噛んだ!

母は痛がって泣いていた。…そのシーンが明確に記憶にある。


〇ハイハイ

周りで大人たちが笑ってる・・
私はただ元気よくハイハイしてる。

それだけである。


〇魔の離乳食

今思えばギョッとする体験だが、、

母は止めていたと思う。父は大丈夫!と・・
噛み砕いたものを口移しで私に食べさせた☆

思い返しても・・不愉快になる!w


〇風呂

風呂は自宅の外にあった。
時期はわからない。たぶん2歳を過ぎた頃。

父と母は交互に私を風呂に入れていた。

あるとき母との言い争いの後に父が私に聞いた。

「お父さんとお母さんと、どっちが気持ちいい?」

テーマは「頭の洗い方」である。

母は私を俯きにさせて、頭からお湯をかけて流してくれる。

父は仰向けに抱きかかえて反り返った私の頭を洗う!

圧倒的に母の洗い方が好きだった。

「お父さんとお母さんと、どっちが気持ちいい?」

また聞かれた。

私は・・・

「どっちもいい・・・」と答えた。

なんとできた仔だったのだろう?!(笑)


〇母の舞台

先にも述べたが母はバレリーナでもあったらしい。
その日は舞台袖で母の帰りを待っていた。

観客のどよめきの中、母は帰って来て・・私を抱きしめた☆

悪魔のようにメイキャップされたその恐ろしい顔を・・・
私が忘れるはずもない。w


*なんでもない出来事の箇条書きが続きます。
私にとってはその「なんでもない」ことこそが重要なのです。


〇2歳当時・家の周りあれこれ

家のすぐ外には巨大なブランコがあって
乗せられたものの すごく怖かったことを覚えている。

リヤカーもあって どこかのオジサンが

「このリヤカーのタイヤはヘリコプターのタイヤなんだぞ!」

と 言っていたのを覚えている。

シェパードがいたが

短い期間だったので預かっていただけなのかもしれない。

巨大な馬と初対面したときに

抱きかかえられていた私は 馬の鼻ずらを撫でた。

「ブヒヒヒヒヒーーーーン!!」

激しく嘶いた馬は立ち上がり・・・ビックリした。w

そういえば・・雪上の馬橇にも乗った。


四方を山で囲まれた細長い町だったので、家の近くにも裏山があって

冬ともなればスキー場でもないのに条件は満たされていて・・

父はスキーと私を抱えて裏山に登った。

父はスキーが得意だったようだが「直滑降」しかしない人であった。

で・・父の胸元に抱えられた私は

恐怖の直滑降」を初体験するのである。

止まりきれずに転倒した父には 当然ながら私もお付き合いされて
雪まみれとなった☆

父との恐怖体験といえば、この先・・
私が4歳くらいの頃、
置戸町の歴史に残るくらいの災害があった年のこと。
豪雨の中、どういう理由でか父は濁流を挟んだ対岸に渡る必要が
あったらしく私も付き合わされた。
小さい私は父の前で正面向きに抱えられている・・・
そこには木材を運ぶトロッコのための小さな橋があって、
線路を支える板が数メートルに渡って落ちていた。
対岸にはその数メートルの鉄の線路の上だけを歩いて進まねば
ならない。 命懸けの恐怖体験である。
豪雨と眼下の濁流の中を・・私は父の先陣を切ってw
ただ 落ちないことだけを願って・・・
ついに 渡り終えたのだった。

山には畑もあって、母とも度々出かけていた。

暑い日差しの中、母とおばちゃん?と
一緒に食べたおにぎりの梅干しは強烈な味だった。

わりと汽車やバスに乗る機会も多かったと思う。

笑顔のオジサンたちやお弁当の光景が浮かぶ。

いつも膝の上で本を読んでくれたどこかのお姉さんが大好きだった。

母も もちろんいろんな本を読んでくれた。

様々な風景が浮かぶが、もちろんすべてを描くワケにもいかない。


〇3歳になった頃

私の家は幼稚園の前身のような形で、子供たちがいっぱい来ていた。

学芸会のような催しがあって
職員?のお姉さんたちがオヤツを作っていた。

小麦粉のお団子を潰した形のものを大鍋でいっぱい茹でて
砂糖を溶かしたタレに付けて食べた。美味しかった想い出。♪


〇家の中の風景

母は前職が教師だったこともあって、様々な知人が家に訪れていた。

そんなある日の夜、私は反抗期を装い家の外に出たまま入らなかった。
中では父母や訪れた人々の笑い声が飛び交い、私から目を離すこともなく
幸せで穏やかな空気が流れていた。


幼稚園ともなっていた家の中の広いスペースは
バレェの教習所でもあり 母が子供たちに教えていた。

トゥシューズを履いたお姉さんたちが一生懸命練習する様子を
私はいつも傍で観ていた。 時にはマネもしながら、、

両踵を付けたまま膝を屈伸して立つ練習をしていて・・私も真似をした。w

「ほら・・この子にもできるのよ?」

そう指導していた母の言葉も覚えている。


その頃、私は毎日絵を描いていた

紙は家にいっぱいあった西洋紙の廉価版のものに
思いつくまま何でも描いた。

新聞に連載されていた小説の挿絵(時代劇)を毎朝描いて
母に褒めてもらおうと見せていたのだが・・
あまり喜んではもらえなかった。自信作だったのに、、(笑)

幼い私の描いた絵が押し入れの中の
かなりのスペースを埋めていたのを覚えている。


この頃
どういう流れか私の描いた絵の展覧会が町の公民館で開催され
新聞にも「天才少年」として掲載されたようだ。

画像1


林業の町でもあった置戸町には各所に材木工場があった。
私はその一軒に連れられて行き
その家の子供たちであるお姉さんたちと遊んだ。

木を薄く裂いた「マサ」も大量にあり
それで様々なオモチャを造る遊びも教えてもらった。

家の中には、材木を加工する際に大量に出てくる
オガクズ」を貯蔵し冬場の燃料とする
オガクズストーブ」があって・・
その強烈な印象を覚えている。

ストーブの上には蒸気機関車の煙突のような形をしている巨大なオガクズのタンクがあり、必要に応じてストーブに入れる仕組みである。
そのストーブを見たのはその時が最初で最後だったように思う。


〇映画
この頃、両親と一緒に観た映画がいくつかあります。
洋画ですがタイトルもわかりませんw ただ・・
洋館の中で女性が階段を上りながら燭台の火を点けてまわり、やがて全てが
火に飲まれてゆくシーンを・・印象的に覚えているだけです。
『白鯨』これは当然ながら後にタイトルもわかりました。
体にも顔中にも入れ墨をした男が占いのためにか転がした骨の破片か石、、
小さい私は恐怖のままに硬直した意識で観ていました。
『ダンボ』 これは母と一緒に観た映画です。
母親とダンボの引き離される様子が哀しくて、、特に印象に残りました。
もしかすると・・何か予感していたのかもしれません。


町にはやっと正式な「幼稚園」が建設されて
前身の時と同様に私の母が園長となった。

私は園長先生の子供だったからだろうか
お山の大将的な扱いを受けていたようにも思う。
なにしろ子供たちがいっぱいいて賑やかだった。


時代は「社交ダンスブーム」でもあり
幼稚園にあった「電蓄」を目当てにした 大人たちの出入りも多かった。

その頃いつも耳にしていて記憶に残っている曲が何だったのかは 
後に「アルゼンチンタンゴ」であったことを知った。

〇かけおち

幼稚園なので当然ながら通常の授業があります。

その日の朝、仲良くなっていた女の子としめし合せて
幼稚園を抜け出しました。

抜け出したとはいえ幼稚園の敷地内でしたから、50メートルと
離れてはいませんが、呼んでも帰らぬ二人はついに放置されたまま
その日の授業は終わりました。

幼稚園の先生たちも途中から、小さな恋人たちを見守る目線で
私たちふたりを容認していました。

その時の女の子は今でも・・
初めて「かけおち」した恋人のことを覚えているのでしょうか?(笑)

********************


〇不穏な空気

私がたぶん4歳前後だったと思う。
家に不穏な空気が流れ始めた。

夜に帰宅した父の胸倉を掴む母の姿があった。

「柔道の練習で遅くなっただけだ、、
子供が見てるんだから、、」と 父。

そんな風景を何度か見た後に、、


*****************


冬のある日・・・

私は母に手を繋がれたまま知らない町を歩いていた。

いくつかの幼稚園で 園長先生と話していた様子や
もらった飴のことも覚えている

母は私と二人で暮らす道を探していたのだと思う。

母は優しい笑顔で私に話しかけながら・・
私も笑顔と元気な言葉で返して・・
不安で幸せな時間が続き・・

激しく降り続ける雪の中を 

母と私はいつまでも歩いていた。


***************


〇とある観光地の旅館

食卓に並べられたご馳走を挟んで

父と母の言い争いが始まり・・
ついには食器とご飯が散乱した☆

その時に鶴の絵が描かれた漆塗りの食器が二つに割れていたのを
覚えている。(祖母の家で、接着剤で合わせられたその食器と再会する
ことになるのは暫く後のことである)


***************


〇母との別れ

家で 父は力任せに私の手を引いて・・母から引き離した!!

いやだー!!

崩れるような母の姿を視界に捉えながら・・

私は叫び激しく抵抗したが、父は柔道場に通う猛者である。
抵抗も空しく私は自転車に乗せられ
同じ町にある父の実家に連れて行かれた。


********************


〇プレゼント

クリスマス・・私のもとにプレゼントが届いた。

ブリキの大きな旅客機と、器用だった母が私の傍で作っていて・・
私の 大のお気に入りだった工作物!

一目で母の想いが伝わった!! 一瞬で胸が熱くなっていた!!

だが、そのプレゼントはすぐに私の手からは取り上げられた。

・・その後のことは知らない。 送り返されたのだろうか、、

あの・・割れていた鶴の絵の食器はあるのに、、どうして?!!


*************


〇母との再会・そして・・

両親の離別からそう時間も過ぎていなかった頃だと思う。

晩秋のある日

置戸町からは 汽車で1時間ほど離れた大きい街・北見市に
私は用事で出てきた父と一緒にいた。

街中の大通りを歩いていた時

私は母の姿を発見した!!

私は父の手を振り払って 母のもとに走った!! 

母も気づいて・・

私は母に飛びつき、母も私を抱きしめた!!!


やがて父が来て、私は母と離されて、、

それが

母と私との終生の別れとなった。



****************


〇あとがき


私が父の実家に引き取られてから小学校に入学するまでは
あっという間に過ぎた気がする。

祖父母と次男の他には叔母が6人の家族である。
新しい出来事に翻弄される日々でもあった。

土木の設計の仕事をしていた父の出張の現場で寝泊まりしたこともあった。

河川工事の現場で工事の様子を眺めていたり

工事の様々な重機に乗せてもらったり、、
オープンスタイルのジープにも乗せてもらって 風を感じたり・・・☆

飯場のご飯やみそ汁が美味しかったり、、


****************


実家にたまに帰ってきた父には
よく北見市の映画館に連れて行ってもらった。

印象に残っているのは『姿三四郎』。豪雨の中の草原での決闘シーン・・・
4本立ての西部劇。『バンビ』 etc・・・

いつも満員の映画館であった。

その頃には置戸町にも映画館が出来ていたので様々な映画を観た。

『鞍馬天狗』『丹下左膳』『哀しき口笛』、、タイトルは忘れたが
ピーターパンのような恰好をした美空ひばりの映画w

『キングコング』 他にもいっぱい、、、☆


******************


そして 年齢を重ねた私は置戸町の置戸小学校に入学するのですが、、

書ききれなかった様々な出来事も含めて
私の幼少期をテーマとする私の追憶の手記は

ここで ・・・とします。

私の身勝手な雑文にお付き合いしてくださった方には
ただただ感謝です!!

ありがとうございました☆

この先の出来事・・
少年期に関してはほんの一部ですが こちらの記事の中にあります。
興味を持たれた方は一読くだされば・・幸せです。


**********************************

〇追記
三年前の秋のことです。
私のもとへ一通の手紙が届きました。差出人は知らない人です。
差出人は母が再婚した後に産まれた父親違いの弟でした。

手紙の内容は、その年の2月に母が亡くなり、遺した家と土地を
引継ぎたいので了解してもらいたい・・とのことでした。
いきなり?、、と思いましたが。。。

母は30年も前から夫とは別居していたようでした。
父親違いの弟は海外にも留学して画家となり、芸大に進む生徒を
指導したり、画業に勤しんでいるようでした。
(私の入った高校には美術の授業もなく、それこそお金なんかなかったのに、、ずいぶん恵まれた育ち方をしたんだな、、と、不思議な感慨w)

その後、手紙やメールを含めた様々な想いを送りましたが、、
「届いた」との返信があったのみで、、その後は「なしのつぶて」です。

どうなることやら、、、?です。

おそまつさま・・でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?