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コミケにおけるトラウマと憤り③(完結編)

つづき



国際展示場。天気良好。寝不足。
複雑な思いと狭い漫画喫茶のシートでは熟睡はできなかった。

Aと集合する。

「卍(作者)さ~ん!」

屈託のない笑顔。いつものA。だがAのご機嫌は全く関係ない。
“持参したものがあるかないか”。それだけが今日の全てだ。

だが、この段階で私はAに何も聞けない。それがその時の私だ。
というかこちらから聞くことじゃないとも思った。

Aと会場へ向かう。
「これがコミケか…」私は思う。
すでにものすごい行列ができている。仲間と談笑する者。一人じっとうつむいている者。ものすごい量の千円札を数えている者。栄養補給する者。

その猛者達の横を通っていく。何くわぬ顔で。当たり前に。
私は誰に対してでもなく軽く会釈をした。

私達は“サークル入場券”を使って会場に入る。設営の時間だ。
始まるのだ。コミックマーケットが。
今日が終わる時、私はベッドの中で何を思うのだろうか。


Aが何かを取り出す。テーブルに敷くクロスだ。
私はコミケを何も知らなかったが、確かに運営からは場所とむき出しの机が用意されるだけであり、それだけでは殺風景である。なるほど、こういったクロスなどを敷いたり飾りつけをするのが一般的なのか…と思った。
Aはコミケを知っているのだ。

他にAは釣銭用のプラスチックでできた小銭入れを取り出した。
私は何も考えていなかった。ただ紙袋に「メガネ神話」20部を入れて持参しただけだった。売れることを全く想定していなかった。

Aは「売ること」に頭がまわっている。
え…。ってことは…。


Aはリュックから「同人誌」を取り出した。
まぎれもなく完成された本。カラーの表紙できちんと製本された同人誌。


「え⁉」「マジかぁぁぁ!」(心の声)


私は正直驚いた。マジで。本だ!間違いなく同人誌!
誰がどう見ても同人誌!それが10冊以上ある!
なんてこった!やられたぜ!

私のわずかな願いが冷静さを失わせていたのかもしれない。


結果から言うとそれはAの本ではなかった…。


Aの友人が作った同人誌でその友人の代わりに売る本。
委託販売というものらしい。

普通に考えれば1日でこんな本が作れるわけないのだ。
どう考えても。


AはA自身の作品を何も持参していなかった。


もう私はわけが分からなかった。Aとは何か。

昨夜の元気な「はいっ!」という返事はなんだったのだろう。
あれは私にだけ聞こえた幻聴なのか…?

そう思えるほどAは「普通」なのだ。
何か言い訳でもしてくれればまだ分かる。
「時間がどうしても足りなくて…」とか
「おばあちゃんが急に倒れて…」とか。

そうすれば「フザけんなよ!」とか私が言ったりして会話になっていくと思う。だがAは「普通」なのだ。真っすぐと堂々と前を向いている。

いや、うつむけよ…。せめて頭(こうべ)を垂らせよ…。

その時は落胆と憤りの感情が私を支配していたと思う。

Aがクロスと釣銭用の入れ物を持参したことにも腹が立った。
そこじゃねぇだろ!と。そこじゃねぇんだよ!と。

結局、簡単にいえば、伝わってないのだ。何一つ。それにつきる。
というか今までもずっとそうだったのだと思う。

私が何を期待し、何に怒っているか。
私が何を大事にし、何を願っているか。

たぶんAには全く何も伝わっていなかった。
私が勝手に一人でイラついたり期待したりしてきただけなのだ。
ずっと。


記憶が鮮明ではないがAになんで持ってこなかったか軽く聞いた時に
「できるわけねーし…」的なニュアンスなことをAがつぶやくように
言ったのを覚えている。

それを聞いて私は本当に心の底から「なんだこいつ」と思ったし、
「終わった」と思った。

もうそこからは全く楽しい感情なんて湧かなかった。
虚無感。コミケ様ごめんなさい。


Aは今まで創ってきてないから分からないのだ。
創ることの難しさ、面倒くささ、労力、不安、勇気。
それがどんなラクガキであっても世にさらすということのキツさ。厳しさ。

だから平気で「メガネ神話」を手に取ることができる。
当たり前にページをめくれる。

確かに漫画は世界中の人が誰でもいつでも読んでいい。
好きでも嫌いでも自由に感想を言っていい。だから素晴らしい。

だけどさ…お前には読む権利ないだろ…どう考えても…
私の「メガネ神話」を今日読む権利だけはお前には絶対ないだろ…

Aにはそれが分からない。伝わらない。

Aは私のラクガキを今まで褒めてくれる数少ない読み手の一人だった。
だが「メガネ神話」の時は
「そうでもねぇな…」的な顔で読んでいた。

せめてリアクションとれや!嘘でいいから!


結果から言うと「メガネ神話」は1部だけ売れた。
それは表紙だけ見て買ったお兄さんがいたからだ。
お兄さんはおそらく限られた時間の中でが表紙だけ見て買いまくるという作戦だったのだと思う。姉の描いた表紙の力で売れた一冊。
後で本を開いたお兄さんはさぞガッカリしただろう。
お兄様…その節は時限爆弾を買わせてしまい本当に申し訳ない…。
(ちなみに一冊100円か200円だっただろうか?家に帰ってからマジでなんで20部も作ったのだろうと自分を呪いながら全部捨てた。)

表紙を姉に描いてもらったことは結果的に自分の首をしめた。
①お客さんが表紙を見る
②少し読んでいいですか?と聞かれる
③中身を見て「何コレ…」という顔になる
④いなくなる
という暗黒の時間を過ごさなければならないからだ。
しかも売り手の私はずっとうつむいている。Aも黙っている。
お客さんにとっても地獄。
隣のサークルの女子たちも「なんだコイツら…」と思ったことだろう。

私にとって会場を出るまでの時間は本当に長いものだった。
隣に何くわぬ顔でAが座っていることにもイラつき、絶望した。
せめて一人でくればよかった…本当に…。
何をやってるんだろう…私は…。バカみたいだな…と思った。
何かを購入したり写真をとったりすることも最後までなかった。

帰る時、Aのリュックと両手の紙袋には購入した同人誌がドッサリ入っていた。



私はその日の帰り、Aと食事中に初めてAに怒った。
けっこうスイッチが入っていたと思う。説教タイムだ。
何を言ったかはあまり覚えていない。

Aは怒られているということはさすがに分かったらしく
「すいません」
「卍さんとの関係続けたいです」
と謝っていた。

逆ギレとか不貞腐れるとか、そういう態度ではなかった。
これがAなのだ。言葉遣いも態度も私よりよっぽど大人に見える。
だが、ひたすら謝るばかりで、そもそもなぜ私を巻き込んだり漫画を持ってこなかったかについて納得できる答えは聞けないのだ。
おそらくAにとってそれらは「たいしたことでない」のだと思う。
だから私に急に怒られて驚いているだけなのだ。そしてこの時間が過ぎればAにとってコミケのことは「終わったこと」になってしまう。
別に私は許していないというのに。今までの事も。当たり前に覚えている。
それが私達の致命的な「ズレ」だろう。

伝わっていないのだ。何も。
だからその後も「卍さんに触発されました」みたいな軽口を叩けるのだ。
その度に私はどうしてもスイッチが入ってしまう。
「もう二度と描くって言うな」と。

Aとの関係はその後も何年も続いた。
(ほとんどの人がありえないと言うが…)

というか前提として、そもそもAとは年に数回、Aから連絡があって会うくらいの関係なのだが。(私は基本的にこちらから連絡するタイプではない)

それでも現在は縁を切った。
面倒なので書かないがその後も私的に「アウト」な事が何度もあり
最終的にこのままだとAがストーカー化すると感じたので
はっきりと厳しめに縁を切った。

しばらくは冗談ではなくAに殺される不安まで頭をよぎったほどだ。
(ごめんなさいと謝りながら刺してくるイメージ)

それほどAの行動に私は疲弊していた。

断言できるが、Aがもし結婚していたら私のところへは来ないだろうということだ。年齢を重ねて焦っている時に他に「誰もいない」から私を求める。
(誤解ないように書くが私は美女ではなくただのオッサンだ)

Aは過去を美化しすぎている。それも現在との対比でしかない。
Aの話す学生時代は私が認識している過去とは異なっていた。
Aは過去だけでなく私のことも美化しているところがあった。

Aは私を親友と言ったがAは私のほとんどを知らないだろう。
初体験も過去の恋人も好きな食べ物もAは何も知らないし、私もAを知らない。私の涙も見た事がないだろう。腹を割ってお互いの悩みを打ちあけあったことが一度でもあったか?

Aは「親友」という安心が欲しいだけなのかもしれない。
一人ではないという安心。

一般的に
「会いたいと思わない」
「一緒にいて楽しくない」
この2点でもう親友どころか友達でもないと思う。
私はとっくにそうなっていた。
だから会わない。これからも一生。

Aには不幸になれとは思わない。だが会うことはない。
どこかで勝手に幸せに暮らしていればいいと思う。

本当は私の情報も一切知ってほしくない。だが、私は現在ネット上でこうやって発信しているのでAが調べようと思えばいくらでも私を知ることができる。

Aにできることがあるとすれば、もう私を追うなということだ。
何も見るな。ほっといていてくれ。マジで。
間違っても偽名でSNSフォローとかすんじゃねーぞ、と思う。
私がこの先、孤独死しようがなんだろうが葬式にも絶対くるな、と願う。

一応フォローするが、Aにも長所はあった。これまでの話はあくまで私視点の話だ。A視点の物語があれば私が悪魔なのかもしれない。
元々は私とAは「似た者」の部分が少なからずあったのだと思う。だから友人になった。それが時間と経験の中でズレていったのだ。
「周りの5人の友人を5で割ったのがあなたです」みたいな言葉が何かの本に書いてあった気がする。友人とは自分が思う以上に鏡の要素があるのかもしれない。自分が変われば周りも変わるのが自然だ。環境を変えれば自分が変わるのも当然といえる。


まあ結局、ずっとAとは始まらなかったのだ。
「バクマン」も「まんが道」も。

これは漫画界の最底辺の話だ。
ずぅ~っと「描く」「描かない」の次元の話なのだから。

みんなとっくに「描いている」。
その先で悩んでいる。それは全く次元の違う世界だ。

ちなみに実はA以外にもいるのだ。「マジでずっと描かなかった友人」が…。
省略するがその彼とも何年もずっと会ってない。
(というか私の電話はもう何年も全く鳴っていない)


私が思うに「描かない人」「やらない人」は
簡単に言えば描かなくても、やらなくても「幸せ」なのだ。

不満気に見えて実は今の生活でけっこう満足してるのだと思う。
だから描く必要がない。

何か作ろう、表現しようって人はだいたいが現在より
「幸せになりたい」
という人なのではないだろうか?

「悪夢を昇華したい」「稼ぎたい」「誰かを感動させたい」
「うれし泣きがしてみたい」「誰かを見返したい」etc.

それぞれがそれぞれの「幸福」のために表現をする。

「承認欲求」という言葉は人をバカにする言葉として流行りすぎてしまったが、それだけでは語れない理由がそれぞれの表現者にはあると思う。


ほんと長々と書いてきたが、そもそも誰が語ってんだという話なのだ。
私はクソみたいな漫画しか描いていないのだから。

だが、どんなに低レベルでもせめて「やる側」にいたいと思う。
それは「やらない」人間をあまりにも多く見てきたからかもしれない。
また、かつての自分も「やらない側」で後悔したこともあるから。

今でも常に「やる」「やらない」に半分ずつ足をつっこんで生きている。
少しでもダメな自分が出てくれば何もしないまま日々は終わり人生は終わる。それじゃ嫌だなって人は「できる限りやる」しかない。

年上の親戚に抽象画を描く女性がいるのだが本当に尊敬している。それは「ずっと描いている」からだ。抽象画は現代ではかなりマイノリティになってしまったかもしれないが、彼女はその世界でしっかりと認められている。
彼女にとって「食っていけるかどうか」はおそらく関係ない。
一生描くのだと思う。それは表現したいことがあるからだ。
彼女は「本物」だなと思う。

私は「やっている人」と「頑張っている人」が大好きなのだ。
漫画でいえばプロアマ問わず「むかし漫画描いてた人」より
「今描いている人」が好きだ。
今描いている人が今一番頑張っているから。
今努力している人が今一番努力している。

インディーズの漫画投稿サイトなど見ていてもみんなすごいと思う。
すごいエネルギーある。マジで。描いて投稿するって大変だもの。
継続している人は特に。
みんなえらいなぁと思う。(ジジイ目線)

漫画を描く人に実際に会って話したりしたことは人生で一度もないが
描いてる人はどこかで「仲間」という感じがある。
会ったこともないのに勝手に心の中で応援することもある。

だからたまにSNSで編集や出版社とのトラブルとか暴露して消息不明になってしまった人とか見ると
「もう漫画は描かないのだろうか…」と勝手に心配したりしている。
「漫画嫌いになっちゃっただろうな…」とか想像してしまう。

そういう人がいつかまた、漫画じゃなくてもどこかで何かを表現をしてくれたら私はうれしい。(心の安定が最優先なのは当然なのだが、そのまま終わって欲しくないという私の身勝手な願望)

最近で言えば私の大好きな「いま漫画を描き続けている人」の結末が
「自死」というのはあまりにもショックすぎた。
悲しすぎたし、憤りも強く感じた。誰が悪いというよりその結末に。

なんで頑張って描き続けてきた人が死ななきゃならないんだよ。
どうなってんだ。この世界は。フザけんなよ。という思い。

そしてそういうことが時間とともに忘れられていくのも本当に嫌いだ。
ネットの世界では芸能人のスキャンダルと一緒にされてしまうから。

「お悔やみ申し上げます」とSNSで言われても本人は成仏できないし、失ったものは二度と戻らない。絶対にとりかえせない。

悲しいニュースや辛い事件が最近多すぎる。
それは表現する人にも影響するだろう。

シリアスな時代にシリアスな作品は見たくないだろうから。
そうすると作品が偏ってきてしまう。

みんなが退屈するくらい平和な世界であってくれといつも願う。
災害も事件もいらない。

世界中の現実がシリアスになりすぎて、笑えない世界になっている。
作品に寛容になれなくなるのも当然だろう。


最後に。

個人的には「作品」を一番に考えるならSNSやnoteはおすすめしない。
作家に神秘性があったほうが作品にはプラスになると思う。

私がnoteを利用しようと思ったのはオッサンになって何でもいいやと思うようになったからである。どうせいつか死ぬし。連載してるわけでもないし。
「こんな人も生きてますよ」という感じ。それが誰かのちょっとした暇つぶしになれば有り難い話。
さらにnoteには「記事をサポートする」という機能まであるらしいではないか!

それは冗談として、誰も読まなくても自分の「記録」にはなるので。

今回初めて、人に公開する長文を打ち込んでみたがけっこう楽しかった。
漫画と違って「絵」を描かなくていいし、漫画はどっちかというと文章を「削る」作業が多いので。でもなんだかんだ文章も時間かかる事も分かりました。

また気が向いたら気楽に何か書きます。

最後まで読んでいただきありがとうございました。
押忍!

    「コミケにおけるトラウマと憤り」 完

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