見出し画像

4月29日(月)

余韻が長いものは良いものだ。三週間前に見た舞台『TIME』の光景と音が今でも度々頭の中に浮かび上がる。あの光景と音の意味の余韻に浸りながらその時に感じる感情を探っている。楽しい。

この前の『サウナとビールの土曜日』のイベントの後にも同じようなものを感じて、久しぶりに「いい仕事をしたなぁ」と思った。

自分たちで作った空間の雰囲気とそこにいる人の雰囲気とやりとりの熱とが溶けてうまく混ざって触れたことのないような感触になって手元に返ってきた。嬉しかった。こういう瞬間を求めて、人との関わりを持っているのだと思う。何か特別なことがあったわけではなく、銭湯に入ってすっきりほくほくした体に冷たいビールを注いでおしゃべりしていただけだ。そういうなんでもない一日の中のなんでもない時間を自然に受け取れることには意味があるように思う。


「上手いことを言おうとするな。その意図こそ、下手くその証。」という自分のメモを見るたび、ハッとさせられる。書いている本人だけが気持ちよくなる紋切り口調の言葉はだめだ。


『悪は存在しない』を観た。

気になっている人はぜひ観てほしい。そして感想を話し合いたい。今はそれしか言えない、ぜひ観てくれ。。


死なない理由が増えていく人生は悪くない。別に生きる理由とか生きたい理由とかいわゆる前向きなものを集めなくてもいい。生きている限り、生きることに囚われている。囚人は囚人らしく、最も遠くになる自由を目指して邁進するのみ。


Twitterスペースで話して仲良くなった友人と、数年前から知り合いだったけど最近になって初めて会った友人と、三人で鳥を食べてお酒を飲んだ。

話す中で、「自己開示とはなんだろうか」という話題になった。個人的に思うことは、二つある。一つ目は、人はいつでもどこでも世界に向かって自分を開示している(してしまっている)ということ。世に流通するような"自己開示"的なコミュニケーションをしたり話題を扱わなくても、十分に自己を開示している(してしまっている)。だから開示するしないかを気にせずに、その場その場での自分を乗りこなしていくような心づもりでいる(これができる人とできない人、やりたい人とやりたくない人は分かれるとは思うが)。

二つ目は、一つ目の補足にもなりそうだが、自然に振る舞っていると、自然に避けてしまうようなテーマや内容を意図的に開示するということ。伝えずらいことや聞きずらいこと、普通は表現しないこと、などなど、その時の自分が違和感を感じるようなことたちをあえてその場に出すことも、それはそれで自分を開示することにはなる。あえて推奨はしないが。そういうテーマを扱うことは、今の自分でも過去の自分でも未来の自分でも、その時々の自分の感情を捉えているなら、ほぼ必ず、苦しさや難しさを伴う。それはそもそも表現しがたいものであるから。だから適切な場で適切なタイミングで心身ともに健全(あるいはそこに向かおうとする)時に取り扱えればよいものであって、軽く取り扱うものではない。そこまで真剣に考える人も多くはないかもしれないが、相手の切実さに触れる可能性があるテーマだと覚悟をする必要があると思う。

人は誰でも、いつでもどこでも、傷ついたり、傷つけられたり、誰かを傷つけたりしている(傷つきとは呼べないような小さなものも含めて、その大きさを決められるのは、傷ついたと感じた本人だけだ)。すれ違う人の視線でも友人との些細な会話でも本を読む時でも文章を書く時でも。大気中で物体が空気に触れると摩擦が生まれるように、人の間に生きるわたしたちは人と人との摩擦のようなものの只中に生きている。一瞬で治ったり痛みはなかったりして気づけずとも。真剣な議論のテーブルやお互いに言いたいことを口走る飲み会では、みなそれぞれに傷つく。

傷は生まれる、いつでもどこでもだれにでも。わたしにもあなたにも。あなたの傷を見た時、私がどう振る舞えるかが問われている。私があたなを傷つけてしまった時どう振る舞えるかが問われている。事前に用意できるぴったりの回答はない。事態に直面して初めて問いの輪郭が見えてくる。あなたが人と関わることを選ぶ以上、あなたは誰かを傷つけることになり、あなたは人に傷つけられることになる。また誰かと一緒に傷つくこともあり、誰かと一緒に傷を癒やすこともある。その人を大切にしたいという気持ちですら、人を傷つけてしまうことがある。こうすればよいということを何も言えないが、苦しみや悲しみ、傷つきに対して、開かれた自分でありたいと願う。それが自分にとって苦しいことだったとしても。


友人と雑談してて、仮に道ゆく人と友人になれたら、その人は道ゆく誰でもない人ではなくなり私にとっての誰かに変わることがとても面白くて、友人を増やしたり雑談したりしたいんだなと気づいた。

小学生の頃、学校前の横断歩道で待ちながら道ゆく車のドライバーの顔を眺めていて、どうして一つ一つ違うんだろうと疑問に思っていたが、あれは彼ら彼女らと友人になれたら、その人への見え方や世界の見え方が変わるかどうかを想像してたのかもしれない。

昔からずっと、人への関心と、人としての自分への関心が続いている。それゆえに受け入れなければいけない宿命のようなものも感じ始めている。それを自覚できただけでも良かったんだと思うことにしている。


5月11日(土) 13時から15時半まで、noteもくもく会をおざぶでやります。おざぶにふらっと来るきっかけのイベントになれたら嬉しいです。note書いてもいいし他にまとめてやりたいことを片付ける機会にしてもらってもよいので、お気軽にお越しください。


カフェラテが上手に淹れられて嬉しかった。


最後まで読んでいただきありがとうございます。