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5月15日(水)

他のnoteを書いた週は、このnoteを書くのが遅れがち。noteを読んだり書いたりするための体力は有限だよね。無理せず行こう。

自室の夕日が見える窓際、自分でつくった小さいデスクに座りながらこのnoteを書いている。今の季節は18時前ごろから世界が夕日色に染まり始める。だからこの時間帯の世界が好きだ。


運営しているオープンスペースの『おざぶ』でタコスを食べる会をやりました。

タコスをつくってくれたよしきさんが、ひらやまがオムプリ好きだと知って、イベント当日にわざわざオムプリを履いてきてくれた。いいやつだった。

その次の日にたまたま予定が合ったので、よしきさんと一緒に日比谷公園で開催されてたイベント最終日のパフォーマンスを見に行った。

コンテンポラリーダンスと雅楽楽器の笙の演奏のコラボレーションだった。太陽のように輝く大巻さんのアートを中心にして、笙演奏者と二人のダンサーが惑星のようにぐるぐるとその周辺を回っていた。演者たちは観客がいる空間にもぐんぐん分け入ってきた、というより、観客の存在を見ていないような感じだった。演奏にもダンスにも人を引き寄せる力と人を跳ね除ける力があった。


たまに「やさしいね」と言われることがある。それが自分のどんな振る舞いに対してなのかを考えていた。

今のところ、やさしさに該当しそうなことを言葉にしてみると、相手の真意は相手の内にあるとしていること、その真意がこちらから見えずともそれはあると仮定すること、真意が見えずとも人とやりとりを続けること、それに基づいた振る舞いのことかもしれないと思った。

人とやり取りする時、その人の内(または周辺)にある真意(本質・実態と言い換えてもいい)という箱を見ている。こちらからその中身はわからない、開くこともできない。まれに相手が開いてくれることがあると、初めてわかる。箱自体ときより移動する。開ける相手にもその中身がわからないこともある。開いたものを一緒に見ても、それがどんなものに見えるかは人によって異なる。

あなたの中には、あなたにだけわかるものがあるよ、と言っている、全身体で。わたしから見えるのはあなたの振る舞いだけで、その背景はわかりえない。もしそれを教えてくれるなら、喜んで聞く。こちらから掴もうとしても真意はするりと逃げてしまう。だからこの態度を関係性の中に馴染ませようとしている。こちらからできることはあまりなき。その姿勢そのものが、やさしさと言われるものと重なるかもしれない。

わたしには触れ得ない部分がないことを知りながらもそのものの近くにいようとすること、それは確かにやさしさなのかもしれない。ただ自覚として、やさしくありたいとはあまり思っていない。世に流通するやさしさと自分がやさしさだと思うことを無理に重ねる必要もないからね。


おざぶで人と雑談する企画を始めた。

ありがたいことに早速申し込みいただいて、日程も決まってきている。おざぶに遊びに来るきっかけになったら嬉しいし、地縁や仕事ではない地点から始まる関係性が少しずつ増えていったら嬉しい。

人と話す時に考えることはなんだろうなぁと思いながらつらつら書いたnoteも出した。

友人曰く、最近のひらやまが濃縮された文章だった、とのことなので、これを読んでもらえたら最近の頭の中を覗いてもらえると思われる。読んで感想もらえたらとても嬉しい。


まだ告知しきれてないけど、友人の坂口さんと一緒におざぶで脱出ゲームやります(部屋でできるのもあるんですよね、知らなかったです)。

やったことない人でも楽しめるようなので、興味ある方いればぜひぜひお気軽にご連絡ください。


最近、Twitterで、いいねしたらnote読みます企画が復活している。4年前くらいにやったことがあって、とても体力を使うので、どうか健康を大事にしながらがんばって… と祈っている。

noteにおいて、あるいは何かを創作している人によって、読んでくれる人の存在は大切だと思う。誰かに届いたと思えて嬉しい人はたくさんいるはず。

書いたり読んだり話したり聞いたりすることで、自分がいまやるとしたらどんなことかなぁとぼんやり考えている。なんだろうな。


最後まで読んでいただきありがとうございます。