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セリフは「読まれている」のではなく「喋られている」

 物語などで登場人物が口にする「セリフ」は、それが台本などに書いてあるものを彼らが読んでいるのではなく、彼らの心の内から喋っているのである。
 これは、少しでも意識から外れると忘れてしまう1つの事実だ。私達は大人になると、物事の裏側というものをよく知るようになり、そして予測するようになる。多くの物事には人間が関わっており、それらは仕事だ。そしてそれらは緻密に組み立てられて、多くの人々の手と目が入っている。

「物語」においてもそれは同じだと思えるものだし、実際にそうだ。それは作られているし、作っている人々がいる。そして登場人物に関して言えば、それを演じたり、演じさせたりする人がいると考えることも、当然なのである。
 すると、登場人物のセリフも同じことである。それは作られている。作る人がいる。それを、私達はどこかで当たり前のように了解してしまう。

 だから、大して心にも響かないセリフが生まれるのである。そのようなことを言う登場人物達は、可哀想なことに、セリフを読まされてしまっている。
 しかし、本来はそれは良くないことだ。登場人物達はもちろん、そのセリフを本人達の言葉として発せねばならない。つまりそのセリフだけでなく、その前後の状況や気持ち、行動、他との関係性なども含めての、セリフなのである。

 創作物と言っても、登場人物のセリフはそこまで現実的でなければ、真に迫ってなければ心に響かず、どこか空虚で、寒い。せっかく夢中になっていても、そんなセリフがあるだけでもう醒めてしまうのである。だから登場人物には、セリフを読むのではなく、喋ってもらわなければならない。

 登場人物がセリフを読んでしまう原因は、本人がその中身を本当に理解していない(理解できるような状況になっていない)からだ。なぜそう言うのか、どのようにして、そしてどんな気持ちが流れているのか。そういうことが、つまり、ビジネス的ではなく、人生としての血が通うことが大切である。
 誰かに言わされているのではなく、それは本人がそうしたいから喋っているのだと感じられることが肝要である。

 そうすれば、セリフとは、本当に「喋っている」ことになる。

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